四代目 柳亭 痴楽(りゅうてい ちらく、1921年5月30日 - 1993年12月1日)は、富山県生まれの落語家。幼少のときに東京へ出て本所(東京都墨田区)で育った。本名∶藤田 重雄。
人物
1921年(大正10年)5月30日、富山県富山市生まれ。幼少期に小児麻痺を患う。
日本芸術協会(現:落語芸術協会)理事長を歴任。出囃子は『きぬた』。軽快な歌い調子の新作落語で人気となった。俗に「綴方狂室の痴楽」と言う。
- 1939年
- 1941年
- 1月∶師匠柳枝が死去。
- 4月∶大師匠(5代目柳亭左楽)の門下へ移籍。二ツ目昇進で大師匠・師匠の前名4代目痴楽を襲名。
- 1945年:生まれたばかりの女児を東京大空襲で亡くす[1]。
- 1945年9月∶第二次世界大戦後初の真打になり、人形町末廣にて真打披露を行なう。
- この頃若手三羽烏(5代目柳家小さん・(3代目三遊亭歌笑)・痴楽)の一人として売り出した。特に歌笑は親友でありライバル。
- 1950年∶歌笑が不慮の事故死。当時の歌笑のマネージャーは、すでにめいっぱいスケジュールを入れていため代演として痴楽を抜擢した。痴楽は、歌笑の十八番「純情詩集」(「七・五調」で演じるもの)に極めてよく似たテイストのネタをかけることとした(歌笑のネタをそのままで「歌笑純情詩集より」として演じていた事もある)。それが「七・五調」で演じる新作落語「
痴楽綴方狂室 」、「恋の山手線」である。また、「破壞し尽くされた顔の持ち主」、「柳亭痴楽はいい男」のフレーズも、顔をネタにした歌笑のアピールポイント(珍顔で売っていた)そのままであった。
その後、一躍人気落語家となり、ラジオ、テレビ、映画へと進出。
東京の定席にはほとんど出ず、高座は大阪の仕事を中心に入れていた。香盤問題等で芸術協会の内部に軋轢が生じていて楽屋に居づらかった[2]と言った事情もあったのだが、当時痴楽には愛人がおり、それは大阪の演歌歌手・(平賀みき)だったからだ。愛人に貢ぐだけでなく、他の芸人にも気前良く奢るお大尽振りで、同年代の芸人からも「チィ旦那」と呼ばれて慕われた。
- 1964年∶歌笑・痴楽の両方と親しい落語評論家小島貞二が作詞し、小林旭が歌う「恋の山手線」という曲がリリースされた。痴楽へのオマージュである(クレジットに痴楽の名が入っていないがどういう経緯で痴楽が了解したのか不明)。しかし歌詞は痴楽のものと似ているような似ていないような微妙に別物のものとなり、もちろん新たなメロディーがつくられている。
- モダンチョキチョキズがカバーしたのは旭の曲。
- 本人自身がレコード歌手としてデビュー。「男なんてポポイのポイ」(コロムビアミュージックエンタテインメント)
- 1972年∶日本芸術協会理事長に就任。
- 1973年10月∶大阪道頓堀角座のトリプル襲名披露興行(4代目桂福團治、2代目桂枝雀、5代目笑福亭枝鶴)へ出演中に脳卒中で倒れる[3]。
- そのまま闘病生活に入り、関西の病院を転々としながら治療、療養を20年あまり続ける。
- 1987年∶東京・浅草の特養老人ホームに移る。落語家として致命的な言語障害を克服することができなかった。
- なお、前述の歌手平賀みきは、痴楽が倒れたのを受け、芸能界を引退し、動けない痴楽と結婚。生涯を痴楽の看病に専念したが、1988年に痴楽より先に死去。
- 1993年
- 1993年12月1日∶死去。72歳没。
主なネタ
一門弟子
- 落語家
- 色物
- (伏見ちか志) - 司会・漫談
- (柳亭久楽) - 前名:ら久楽(漫談)
作品
CD
音楽
「男なんてポポイのポイ」はいくつかの企画盤に収録されている。
落語
- 『決定盤 四代目 柳亭痴楽落語集』コロムビアミュージックエンタテインメント,COCJ-34585-6,2007年
- 『落語名人集 (3) 四代目 柳亭痴楽』コロムビアCOCJ-31446,2001年
- 『落語名人集 (4) 四代目 柳亭痴楽』コロムビアCOCJ-31447
- 『落語名人集 (5) 四代目 柳亭痴楽』コロムビアCOCJ-31448
- 『綴り方狂室』日本音声保存 ANOC-7036/37(朝日ソノラマ・「特選シリーズ痴楽綴り方狂室」のリマスタリング)
- 『NHK新落語名人選 四代目 柳亭痴楽』ユニバーサルUICZ-4145
- 『日本の伝統芸能シリーズ 落語1 四代 柳亭痴楽』テイチクTECR-20151 カセットもあり
- 『落語秘蔵盤: 痴楽「桃太郎」「幽霊タクシー」/桂小南「西の旅」』COCJ-32748
- 『ききたい落語家シリーズ;(10) 柳亭痴楽・三代目三遊亭円歌』コロムビアCOCF-12950
出演映画
註
- ^ 柏木新『落語の歴史』本の泉社、2012年2月25日、126頁。ISBN (9784780707441)。
- ^ 立川談志によると、当時落語協会の楽屋に良く顔を見せ、落語協会所属の噺家達と談笑していたという。
- ^ 倒れた痴楽を救護したのは、入門間もない笑福亭鶴瓶だった。