林 宗重(はやし むねしげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。小早川氏、毛利氏家臣。長州藩士。父は備中国冠山城主・林重真。
生涯
羽柴秀吉の中国攻めが始まると、宗重は清水宗治が守将を務める備中高松城に籠城し、備中高松城の北の大手である池下丸の守備についた。
天正10年(1582年)4月25日、冠山城に籠城して羽柴秀吉と宇喜多忠家の軍と戦っていた父・重真が敗れて切腹したため、父の後を継いだ。冠山城陥落後、羽柴秀吉による備中高松城水攻めの結果、同年6月4日に清水宗治、清水月清入道、(難波宗忠)、末近信賀が切腹して備中高松城は開城。城を退去した宗重は小早川隆景に召し出され、以後は小早川氏に仕えることとなる。
天正20年(1592年)から始まる文禄の役では小早川隆景に従って朝鮮に渡った。帰国後は小早川氏の家督を継いだ小早川秀秋に仕え、文禄4年(1595年)12月1日に筑後国竹野郡石垣村の内の350石を与えられた。また、慶長2年(1597年)4月1日には筑前国穂波郡の土師村・土居村・弥山村の500石を与えられ、鉄砲者20人を付けられた。同年から始まる慶長の役では小早川秀秋に従って再び朝鮮に渡る。翌慶長3年(1598年)に帰国した後に秀秋から暇を与えられて牢人となったが、慶長4年(1599年)に毛利輝元から召し出され、以後は毛利家に仕えることとなった。毛利氏では弓衆20人組の組頭となっている。