松浦郡(まつうらぐん)は、肥前国(佐賀県・長崎県)にあった郡。
郡域
概ね現在の下記の区域にあたるが、行政区画として画定されたものではない。肥前国で最大の面積を持つ郡であった。
歴史
古代
『魏志倭人伝』に見える「末廬国」は松浦のことと考えられており、現在の唐津市付近と想定されている。
郡衙は現在の唐津市内に置かれていたと推定されている。
「日本三代実録」貞観18年3月9日条(876年)には、当時の大宰権帥在原行平の建言により肥前国のうち松浦郡庇羅郷と同郡値賀郷を分けて値嘉島(ちかのしま)を設置し、同嶋内に上近郡(かみつちかのこおり)と下近郡(しもつちかのこおり)を置くことを認めたとの記録がある。現在の平戸島及び五島列島とその近辺の島を区域とし、島府と上近郡家が平戸に、下近郡家が五島列島内にいずれかに置かれたと推定されている。記事から半世紀足らずの10世紀始めに編纂された「延喜式」には値嘉島の記載はなく、それまでに値嘉島は廃され肥前国松浦郡に復したものとみられる。[1]
式内社
神名帳 | 比定社 | 集成 | |||||
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社名 | 読み | 格 | 付記 | 社名 | 所在地 | 備考 | |
松浦郡 2座(大1座・小1座) | |||||||
田島坐神社 | タシマノ- | 名神大 | 田島神社 | 佐賀県唐津市呼子町加部島 | [1] | ||
志志伎神社 | シシキノ | 小 | 志々伎神社 | 長崎県平戸市野子町 | |||
(凡例を表示) |
近世以降の沿革
- 所属町村の変遷は(東松浦郡#郡発足までの沿革)、(西松浦郡#郡発足までの沿革)、(北松浦郡#郡発足までの沿革)、(南松浦郡#郡発足までの沿革)をそれぞれ参照
- 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。幕府領は長崎奉行が管轄。(3町345村)
- 慶応4年
- 明治2年
- 明治3年(1870年)9月 - 旗本松浦氏領が長崎県の管轄となる。
- 明治4年
- 明治5年5月29日(1872年7月4日) - 伊万里県の管轄区域が佐賀県(第2次)の管轄となる。
- 明治9年(1876年)
- 明治11年(1878年)10月28日 - 郡区町村編制法の長崎県での施行により、松浦郡のうち、唐津城下ほか1町172村の区域に東松浦郡が、伊万里町ほか1町87村の区域に西松浦郡が、平戸町ほか1町49村の区域に北松浦郡が、福江村ほか17村の区域に南松浦郡がそれぞれ行政区画として発足[2]。同日松浦郡消滅。