略歴
和泉国の人。(和泉松浦氏)の岸和田城主松浦肥前守(光)の家臣の寺田又右衛門(生家)・安太夫(松浦宗清)兄弟[1]とは、従弟の関係であるという[2]。
寺田兄弟は織田信長に仕えた後に、又右衛門は豊臣秀長に仕え、安太夫(宗清)と安兵衛(秀任)は秀吉に馬廻として仕えた。
文禄元年(1592年)、文禄の役では馬廻詰衆として肥前名護屋城に駐屯した[3][4]。文禄2年(1593年)閏9月12日、『駒井日記』によれば、1,000石加増された[5][4]。
文禄3年(1594年)、伏見城普請を分担[4]。『松浦古事記』によれば、同年、大坂城西の丸で能の演目『(皇帝)』が演じられた際に、悪鬼役を演じた[6]。
慶長3年(1598年)頃、伊勢国
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、前哨戦の伏見城の戦い、安濃津城の戦いに参加。伊勢から近江路に向かい、立花宗茂らと大津城の戦いに加わって奮戦したが、9月13日、銃弾を受けて戦死した[4][7]。戦後、宗茂はその勇気に感心し、秀任の子を召し出して家臣としたという[2]。
脚注
- ^ 和泉国和泉郡寺田村に興った寺田氏の一族。和泉水軍の将。
- ^ a b 国史研究会 1914, p. 225.
- ^ 阿部 1990, p. 722.
- ^ a b c d e f 高柳 & 松平 1981, p. 236.
- ^ 史料綜覧11編913冊34頁。
- ^ 吉村茂三郎 著「国立国会図書館デジタルコレクション 松浦古事記」、吉村茂三郎 編『松浦叢書 郷土史料』 第1、吉村茂三郎、1934年、185頁 。
- ^ 大津城攻めで討死したことは「大津籠城合戦記」に「寄手ハ松浦伊予守ヲ初、宗徒ノ兵数多討レ」、「筑紫古文書」にも「大坂御旗本衆、増田右衛門尉人数・片桐市正人数・片桐主膳正・松浦伊予守討死」とあり、「廃絶録」なども同様である。