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松平 忠精(まつだいら ただきよ)は、江戸時代後期の大名。肥前国島原藩5代藩主。深溝松平家15代当主。官位は従五位下・主殿頭。
生涯
天保3年(1832年)6月17日、8代藩主・松平忠侯の四男として誕生。弘化4年(1847年)に兄で9代藩主・忠誠が死去したため、その養子として家督を継いだ。嘉永元年(1848年)12月16日、従五位下・主殿頭に叙位・任官する。
藩政では外国船に対する脅威に対抗するため、長崎警備と軍事力の強化に努めた。しかし軍事力増強に加え、水害や旱魃などの天災が相次いで藩財政の悪化を招き、借金や年貢増徴政策、倹約令を出すなどして財政再建を行なおうとした。ところが年貢増徴政策には百姓の不満を招き、弘化4年(1847年)12月に(平松かぶり)という百姓一揆を引き起こすこととなり、以後は貧農救済に努めざるを得なくなった。嘉永2年(1849年)にはシーボルトの弟子・賀来佐一郎を招聘して種痘を実施している。
系譜
父母
正室、継室
子女
養子