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松平忠俔

松平 忠俔(まつだいら ただみ)は、江戸時代中期の大名肥前国島原藩3代藩主。深溝松平家8代当主。官位従五位下主殿頭

 
松平忠俔
時代 江戸時代中期
生誕 正徳元年12月1日1712年1月8日
死没 元文3年3月21日1738年5月9日
改名 芳喬(幼名)、忠長(初名)、忠俔
戒名 玉竜院殿譚水源澄大居士
墓所 愛知県額田郡幸田町深溝の本光寺
官位 従五位下主殿頭
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗
肥前島原藩
氏族 深溝松平家
父母 (松平次章)、松平忠雄
兄弟 忠救忠俔
松平勝全継室、忠刻
(テンプレートを表示)

略歴

正徳元年(1711年)12月1日、代々島原藩深溝松平家の大老を務めた松平勘解由家の当主・(松平次章)の四男として誕生(宝永4年(1707年)生まれとの説もある)。はじめ奥平芳喬と名乗る。

本家の島原藩2代藩主・松平忠雄は、実子が早世したため、養子として芳喬の実兄である忠救(定方)を迎えた。このとき、松平勘解由家当主となった(松平広教)(忠救の子)が幼かったため、芳喬が広教の補佐を命じられる。また松平姓を許され、通称を図書と称した。

享保19年(1734年)10月15日、忠救が早世したため、芳喬が享保20年(1735年)5月16日に忠雄の養子となった。12月2日に忠雄が隠居したため家督を継いだ。このとき、従五位下主殿頭に叙任され、名を忠長と改める。その後、忠俔と改名。

忠雄の治世で藩主の寵愛を良いことに専権を振るっていた(黒川政勝)を元文元年(1736年)12月に処刑するなどして綱紀粛正を図り、家臣への貸銀貸米を免除する救恤策も採ったが、もともと病弱だったことから元文3年(1738年)3月21日、吐血して間もなく死去した。享年28。跡を養子・忠刻が継いだ。

系譜

父母

婚約者

子女

養子

脚注

参考文献

  • 『深溝世紀 第11』

外部リンク

  • ふるさと再発見「第7代島原城主 松平忠俔(ただみ)公(1711-1738)」 - 島原市
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