歴史
漢の紀元前203年に設置された。既に武城県が左馮翊にあったことから、区別のために頭に「東」の字をつけた。清河郡に属し[2]、治所は(衛運河)以西(現在の河北省衡水市故城県南部)にあった。晋の太康年間に「東」の字が取り払われて、以降は単に「武城県」となった。北斉の天保7年(556年)、治所が現在の河北省邢台市清河県北西部に移されたが、隋の開皇6年(586年)に治所が元の場所に戻され、宋の大観年間まで続いた。
出典
参考資料
- 梶山智史「<<論説>北朝における東清河崔氏 : 崔鴻『十六国春秋』編纂の背景に関する一考察」『史林』第96巻第6号、史学研究会、2013年11月30日、815-848頁、doi:10.14989/shirin_96_815。