村上 久米太郎(むらかみ くめたろう、1887年12月3日 - 1958年1月26日)は、愛媛県越智郡出身の元軍人であった。1934年の旧満州での出来事(下記)で知られている。
概要
愛媛県越智郡津島村(現今治市吉海)に生まれた。小学校卒業後は農業に従事し、徴兵で18年間軍隊生活を送り、1925年奉天守備隊員を最後に除隊。その後旅順や大連でも働いた。
吉林省の事務官時代の1934年8月30日に、ハルビン発新京行きの夜行列車で匪賊の襲撃に遭遇し、乗り合わせた外国人2人を含む9人が人質となって監禁された時に、救助の日本軍捜索隊の「日本人はいるか?」の呼び声に、匪賊は人質たちに答えるなと命令したが、村上は「日本人ここにあり」と叫び、それを聞いて捜索隊が突入し全員が救助された。
村上はこの際顎を撃たれたが、人質のアメリカ人二人のうち一人はメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社の社員であり、この会社の社長のアーサー・ローエルは当時の広田弘毅外務大臣に謝辞を寄せ、満州国皇帝は(景雲章)(日本の旭日章に相当)を贈り、犠牲となるを厭わなかった勇気を称えた[1]。
戦後は愛媛県松山市に帰り、1958年1月26日に亡くなった。著書に『日本人こゝにあり』があり、復刻版も出版されている[2][3]。
文化
この満洲での事件の後に、流行歌「-日本人は此処に在り- 義人村上」(佐藤惣之助作詞、古関裕而作曲)が作られた[4]。
田河水泡は、『(のらくろ)』第3巻『のらくろ伍長』の「序文」で、「村上少尉が満州で『日本人ここにあり』と叫んだあの意気に学んで 君も僕も日本人として肩を組んで大日本帝国の平和を守ろう。」と書いている[5]。
脚注
関連項目
外部リンク
- 愛媛県史人物:村上久米太郎(愛媛県生涯学習センター:データベース『えひめの記憶』)