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李人稙

李 人稙(り じんしょく、1862年7月27日 - 1916年11月1日)は、朝鮮小説家、(言論人)。本貫は(韓山)。は菊初[1]

李人稙
各種表記
ハングル 이인직
漢字 李人稙
発音: イ・インジク
日本語読み: りじんしょく
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略歴

京畿道利川生まれ。1900年2月、38歳で政府留学生として渡日、(東京政治学校)に入学する。趙重応とともに、小松緑の講義を聴講した。1903年大韓帝国政府は日本に留学している学生を本国に召還するが、李はそれに応じず日本に残った。後に起業しようと考えて、都新聞の見習いをする。東京政治学校は1903年に卒業した。

1904年日露戦争が勃発すると、陸軍省韓語通訳として第1軍司令部に所属し、従軍する。1906年2月、一進会の機関紙である『(国民新報)』の主筆となり、同誌に処女作である「白鷺洲江上村」を連載する。同年6月、天道教系の新聞『(萬歳報)』に移り、同誌に7月から10月の間、「血の涙(혈의누)」を連載する。また10月から翌年5月まで「鬼の声(귀의성)」を連載する。1907年の5月から6月にかけて、「血の涙」の続編を執筆するが、中断する。同年7月、『(大韓新聞)』を創刊し、社長に就任する。『大韓新聞』はその後、李完用の御用新聞として活動した。1908年には、(圓覚社)を作り、自作の新小説「銀世界」を舞台で上演した。1908年頃になると、暫く創作活動から遠ざかり、日韓を往来しながら新劇運動、天理教の布教活動を行う一方で、小松緑と内通し韓国併合のための裏工作に従事する。しかし、併合後に与えられた役職は(経学院司)(成均館官吏)という低い地位であった。

李は、『血の涙』で、朝鮮語の表記をいろいろと試している。『国民新報』に載せられたものは、漢字ハングル混合体で、漢字にはハングルで小さく音読みと訓読みが添えられている。訓読みでルビを振るというのは非常に珍しいものである。単行本として刊行するときは、全てハングルにした。朝鮮における新小説を語る場合、李人稙を省くことはできないとの意見がある。『血の涙』は新小説の嚆矢であり、最初の朝鮮近代文学との評価もある。

死後は親日反民族行為者に認定された[2]

年譜

  • 1862年7月27日、京畿道利川で生まれる。
  • 1900年2月、38歳で政府留学生として渡日。(東京政治学校)に入学。
  • 1903年、東京政治学校を卒業。
  • 1904年、陸軍省韓語通訳として日露戦争に従軍する。
  • 1906年2月、『(国民新報)』の主筆を務める。
  • 1906年6月、『(萬歳報)』に移る。
  • 1907年7月、『(大韓新聞)』を創刊し、社長に就任する。
  • 1916年11月1日、死去。

作品

  • 1906年、『소설 단편』((萬歳報))
  • 1906年、『혈의 누』(萬歳報)
  • 1906年、『귀의 성』(萬歳報)
  • 1908年、『치악산』((唯一書館))
  • 1908年、『은세계』((同文社))
  • 1912年、『빈선랑의 일미인』(毎日新報
  • 1912年、『모란봉』((東洋書院))
  • 1915年、『석사자상』((仏教振興会月報))

脚注

  1. ^ “이인직(李人稙)”. 韓国民族文化大百科事典. 2022年8月24日閲覧。
  2. ^ “`친일 반민족행위자' 106인 명단” (朝鮮語). 한경닷컴 (2006年12月6日). 2022年7月25日閲覧。
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