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略歴
父の重成は豊臣秀頼に小姓として仕えていたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで父三成率いる西軍が東軍に大敗し、石田家の居城であった佐和山城も落城したことを知ると、津軽信建の助けで乳母の父・津山甚内らとともに陸奥国津軽に逃れた。
同地で吉成は、信建の弟である津軽信枚(弘前藩主)の娘を妻とし、累進して寛永21年(1644年)には1300石知行、御証人役加判となる(杉山貞五郎の由緒書)。
寛文9年(1669年)、蝦夷地で起こったシャクシャインの戦いで、江戸幕府からの要請を受け、弘前藩侍大将として総勢700名で蝦夷地に渡海し、のちに幕府から褒賞を授与された(津軽一統志)。子孫は弘前藩重臣として存続した。
実在した弘前藩の忍者集団「(早道之者)(はやみちのもの)」は吉成によって結成されたという。杉山家は代々、早道之者を統率し、蝦夷地の調査や監視活動を指揮したとされる[1]。
脚注
- ^ 弘前の忍者屋敷、石田三成の子孫が住んでいた 青森大忍者部の調査で判明(『河北新報』)