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本田宗一郎

本田 宗一郎ほんだ そういちろう1906年明治39年)11月17日 - 1991年平成3年)8月5日)は、日本実業家技術者。輸送用機器メーカー本田技研工業(通称:ホンダ)の創業者。位階正三位

本田ほんだ 宗一郎そういちろう
『財界』1964年新年特大号より
生誕 (1906-11-17) 1906年11月17日
日本 静岡県磐田郡光明村(後の天竜市、現在の浜松市天竜区
死没 (1991-08-05) 1991年8月5日(84歳没)
日本 東京都文京区順天堂大学医学部附属順天堂医院[1]
国籍 日本
教育二俣尋常高等小学校
配偶者本田さち
子供
  • 本田博俊(長男)
  • (本田勝久)(二男)
  • (尾形恵子)(長女)
  • 父:(本田儀平)
  • 母:本田みか
業績
成果 本田技研工業の創業者
1963年、本田宗一郎とF1ホンダ・RA270

生い立ち

エピソード

  • 終戦直後は何も事業をせず、土地や株を売却した資金で合成酒を作ったり、製塩機を作って海水からを作りと交換したりして「遊んで」いたという。しかしこの時期に、苦労して買い出しをしていた妻の自転車に「エンジンをつけたら買い出しが楽になる」と思いつき、二輪車の研究が始まる[6][出典無効]
  • 1950年代前半、生来の機械好きが高じて資本金600万円の時代に総額4億円の外国製工作機械を購入。しかし1955年には100社を超えるオートバイメーカーが撤退する不況が訪れ、ダイヤモンド誌に「高い金を出して機械を買っても使い切れていない」と過剰な設備投資を批判されるが、後に「会社がつぶれても機械そのものは日本に残って働くだろう。国民の外貨は決してムダにはなるまい。」と当時の心境を語っている。会社は、シェア1位の東京発動機(トーハツ)が買収に乗り出すほどの苦境に陥るものの、三菱銀行京橋支店が社是「世界的視野に立て」に共感して融資を行い辛うじて踏みとどまった[7]
  • 会社のハンコを藤沢武夫に預け、経営もすべて任せていた。本田は社印も実印も見たことがなく[8]、技術部門に集中し、のちに「藤沢がいなかったら会社はとっくのとうに潰れていた」と述べており、藤沢も「本田がいなければここまで会社は大きくならなかった」と述べている[9]。互いに「西落合」(本田の自宅のある地)、「六本木」(藤沢の自宅のある地)とざっくばらんに呼び合っていた。また両者は「会社は個人の持ち物ではない」という考えをもっており身内を入社させなかった[注釈 5]。本田は社名に個人の姓を付したことも後悔していた[要出典]
  • 経営難に陥ったときに藤沢の助言でマン島TTレースF1などの世界のビッグレースに参戦することを宣言し、従業員の士気高揚を図ることで経営を立て直した。出場宣言は藤沢によって書かれた[10]
  • 藤沢の死の翌年の1989年に、本田が日本人として初めてアメリカの自動車殿堂入りを果たしたときに、本田は授賞式を終えて帰国したその足で藤沢邸に向かい、藤沢の位牌に受賞したメダルを架け「これは俺がもらったんじゃねえ。お前さんと二人でもらったんだ。これは二人のものだ」と語りかけた[11]
  • 従業員からは親しみをこめて「オヤジさん」と呼ばれていたが、一方でともに仕事をした従業員は共通して「オヤジさんは怖かった」とも述べている。作業中に中途半端な仕事をしたときなどは怒声と同時に容赦なく工具で頭を殴ったり、実験室で算出されたデータを滔滔と読み上げる社員に業を煮やし「実際に走行させたデータを持ってこい」と激怒して灰皿で殴ったりしていた。しかし、殴られた者よりも殴った本田の方が泣いていたこともあったという。また怒る際、「人はよく、かわいいからこそ怒るなんて言うが、おれはそうじゃない。そのときはほんとに憎たらしくなる。なぜなら、おれたちのつくる商品は人命にかかわるものなんだ。それをないがしろにする人間は絶対に許せない」と言ったとされる[12]
  • 1952年(昭和27年)に藍綬褒章を皇居で授与されるにあたり、「技術者の正装とは真っ白なツナギ(作業着)だ」と言いその服装で出席しようとしたが、さすがに周囲に止められ、最終的には藤沢武夫が用意したモーニング燕尾服)を借りて出席した[13]。本人曰く燕尾服を持っていなかったためそのような発言をしたとのことである[13]
  • 差別を「諸悪の根源」とし、差別を徹底して嫌っていた。子どものころに「家族の中でお風呂に入る順番が決まっている」ことに気づいてからだという。「人種や家柄や学歴などで人間を判断することを、私は今日まで、徹底してやらなかった」[8]
    • 松阪市で開かれたある会議に参加した本田は、管理職の1人が松阪牛の料理店・和田金での昼食を提案したところ、「(会議の参加者)50人も一緒に食事できる部屋はあるのか」と問い、一部管理職以外の参加者が弁当を食べることを知ると、「じゃあ、おれも弁当にする」と即答した[14][15][16]
  • 邱永漢・渡部昇一『アジア共円圏の時代』によると、作家・経済評論家の邱永漢に、ホンダの海外の工場で一番うまくいっているところと一番具合が悪かったところを問われた本田は「いいほうを『台湾』、悪いほうを『韓国』」と答えたという。韓国について、「『どうしてですか?』と尋ねると、『向こうへ行って、オートバイを作るのを教えた。それで、一通りできるようになったら、『株を全部買いますから、帰ってくれ』と言われた。『どうしましょうか』と下の者が聞いてきたから、『そんなことを言われるところでやることはねえよ』と言って、金を返してもらった。その翌日に朴正煕が殺されたんだ』とおっしゃった」という[17]。なお、本田がオートバイを作るのを教えたとされる台湾および韓国のメーカーは本書では明らかにされていない。ちなみに朴正煕が殺された1979年当時、ホンダが韓国で提携していたのは起亜技研(起亜グループの二輪車部門)であり、実際にホンダは1975年より続いた起亜技研との合弁事業を1979年に解消して資本撤退している[18]が、一方で技術供与は継続しており、起亜のバイクが「KIA Honda」ブランドで販売されていた。また、1981年に起亜技研が大林グループ入りして大林自動車となった際には大林自動車にも技術供与を行い、大林のバイクが「DAELIM Honda」ブランドで販売されていた[19][出典無効][20]
  • また別の著書による社長退任のエピソードとして、エンジンを水冷か空冷かのどちらにするかという論争がホンダの社内で巻き起こったころ、若い技術者が公害規制をクリアする意味で水冷だと主張したのに対し、本田は「砂漠の真ん中でエンストしたときに水なんかあるか!空冷だ」と主張したという。実際に一時は本田の意見が通りホンダ・1300の発売に至っているが、同時にこれは久米是志の出社拒否騒動に代表される若手エンジニアの反発を招いた(ホンダ・RA302および(ホンダ・1300#本田宗一郎と空冷)も参照のこと)。しかしさまざまなテストの結果、最終的に水冷の方が優れていることが分かり、ホンダは水冷エンジン路線に転換する。そのときに本田は「自分には技術が分からなくなったのかもしれない」と思い、社長を退いたという[21]。ホンダF1チーム監督であった中村良夫は、「結局、本田社長はもっとも基本的な熱力学の物理法則を理解していないので、いくらいっても論争がかみ合わないのです」「人間としては尊敬できるが技術者としては尊敬できない」と語っている。このほか、技術者としては2ストロークエンジンをあまり好まなかったことが伝えられる[22]ホンダ・スーパーカブの開発時、当時は50 ccエンジンであれば2ストロークが一般的だったところ、あえて4ストロークエンジンを開発し採用した[23]
  • 社長退職後、全国のHondaディーラー店を御礼参りする。その際、整備担当が握手を求めたが、自分の手が油だらけなことに気がつき、洗いに行こうとする。しかし、本田は自らも技術者であったため、油まみれの手での握手に喜んで応じた[24]
  • 逝去の2日前、さち夫人に「自分を背負って歩いてくれ」と言い、夫人は点滴の管をぶら下げた本田を背負い病室の中を歩いた。そして「満足だった」という言葉を遺した。弔問時に遺族からそのエピソードを聞いた親友の井深大は「これが本田宗一郎の本質であったか」と述べ涙したという[25]
  • その井深とは、ともに技術者出身でありシンパシーもあって、出会ってから自然と親友となった。そして、「互いの頼みごとは断らない」などのルールを決め、互いに文化事業などの役員を推薦し合って務めたという。また、互いに手紙をやり取りしあうことも忘れず、あるときに井深が「ワープロで手紙を送って、彼を驚かそう」と手紙を打っていたが、寸前に本田が帰らぬ人となり、その手紙を送ることは叶わなかった[25]
  • 三ない運動に関して、「高校生から教育の名のもとにバイクを取り上げるのではなく、バイクに乗る際のルールや危険性を十分に教えていくのが学校教育ではないのか」と発言し、終始批判的なスタンスを取り続けた[26]。この考えはのちの本田首脳陣にも引き継がれ、徳島県の生光学園中学校・高等学校と共同実施する高校生への安全教習や、元会長の池忠彦による運動を推進する自治体への批判発言という形で具現化されている。

受賞・栄典

主な著作書籍

  • 『私の手が語る』(1982年・講談社ISBN (978-4061459410)
  • 『やりたいことをやれ』PHP研究所、2005年。ISBN (978-4569641881)。 
  • 『俺の考え』(1996年・新潮文庫ISBN (978-4101461113)
  • 『得手に帆あげて』(2000年・三笠書房 新装版 わせだ書房刊を再編集) ISBN (978-4837918547)
  • 『スピードに生きる』(2006年・実業之日本社 新装版) ISBN (978-4408395883)
  • 夢を力に日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年。ISBN (978-4532190699)。 

評伝

  • 梶原一明編 『一冊でわかる!本田宗一郎』(2009年・PHPビジネス新書) ISBN (978-4-569-77223-3)
  • 伊丹敬之 『本田宗一郎 やってみもせんで、何がわかる』(2010年・ミネルヴァ書房ISBN (978-4623058556)
  • NHKスペシャル「我が友 本田宗一郎〜井深大が語る“技術と格闘した男”〜」(1991年12月15日、NHK)[31]

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ “昭和35年~昭和36年頃 三角乗り”. 自転車文化センター. 2015年4月17日閲覧。
  2. ^ 後にホンダの系列会社「本田金属技術」を設立する。
  3. ^ 同店は現在でも自動車修理工場として存続している。
  4. ^ 現在の「本田財団」が行っている事業「YES奨励賞」の原点。
  5. ^ ただし、本田の弟・弁二郎の「本田金属技術」や息子・博俊の「無限」など、親族経営の関連会社は存在する。

出典

  1. ^ a b “史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月26日閲覧。
  2. ^ 『学習まんが人物館 本田宗一郎』小学館、1996年、[]頁。ISBN (978-4092701090)。 
  3. ^ 本田 2001, p. [].
  4. ^ 小林彰太郎トヨタ博物館『昭和の日本 自動車見聞録』カーグラフィック、2013年、121-122頁。ISBN (978-4907234027)。 
  5. ^ 他社の車も乗せて ホンダN360欠陥テスト場へ『朝日新聞』1970年(昭和45年)12月10日朝刊 12版 22面
  6. ^ NHK あの人からのメッセージ番組内で、本田宗一郎が自ら経緯を語る
  7. ^ “ホンダの2度の倒産危機・復活に凝縮される、本田宗一郎の真の凄さ”. BIZ HINT (2020年4月12日). 2020年4月17日閲覧。
  8. ^ a b 本田 2005, p. [].
  9. ^ 山本治『ホンダの原点』成美堂出版〈成美文庫〉、1996年、56頁。ISBN (978-4415064505)。 
  10. ^ 藤沢 1998, p. 43.
  11. ^ 山本祐輔『藤沢武夫の研究』かのう書房、1993年、236頁。 
  12. ^ “『120%の良品を目指せ!』お客様第一主義の意義深い言葉”. 語り継ぎたいこと. 本田技研工業. 2018年11月25日閲覧。
  13. ^ a b 本田 2001, pp. 75–76.
  14. ^ “本田宗一郎の「"仕事"への熱を加速させる言葉」”. SBCrOnline (2013年11月27日). 2019年1月1日閲覧。
  15. ^ 新刊JP編集部 (2015年1月7日). “高級牛肉を拒否!本田宗一郎の生き様”. エキサイトニュース. 2019年1月1日閲覧。
  16. ^ 梶原一明『一冊でわかる!本田宗一郎:「世界のホンダ」を創り上げた男の「挑戦の軌跡」』PHP研究所、2016年11月4日https://books.google.co.jp/books?id=jvm-CAAAQBAJ&pg=PA2039&lpg=PA2039&dq=%E5%92%8C%E7%94%B0%E9%87%91+%E6%9C%AC%E7%94%B0%E5%AE%97%E4%B8%80%E9%83%8E&source=bl&ots=AebPrp5A30&sig=Ia8_cLisOq2uxn54X2K9DYd2gEs&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiXmuuX68vfAhVY57wKHW2iCVkQ6AEwA3oECAcQAQ#v=onepage&q=%E5%92%8C%E7%94%B0%E9%87%91%20%E6%9C%AC%E7%94%B0%E5%AE%97%E4%B8%80%E9%83%8E&f=false2019年1月1日閲覧 
  17. ^ 邱永漢、渡部昇一『アジア共円圏の時代』PHP研究所、1994年、86頁。ISBN (978-4569544601)。 
  18. ^ 『本田技研、韓国での二輪車合弁事業を解消、起亜産業から資本撤退』 - 日経産業新聞 1979年9月24日
  19. ^ ★本田宗一郎氏「韓国人とは関わるな」発言はデマですよ - ☆杉野洋明 極東亜細亜研究所~韓国系企業の元社員が語る韓国
  20. ^ 『本田、韓国で起亜技研に続き大林工業に二輪車技術供与~鈴木自・暁星機械組と激突』 - 日経産業新聞 1981年12月12日。『帰ってくれ』と言われたはずの1979年以降もホンダから起亜技研への技術供与が継続していたことを示す。
  21. ^ 佐高信『『変わり者が日本を救う―異端という才能』』光文社、2002年、119頁。ISBN (978-4334973407)。 
  22. ^ “ホンダのチャレンジングスピリット50 ロードパル 目標達成までとことんやり合う” (PDF). Honda社史・50年史. 本田技研工業. 2014年2月5日閲覧。
  23. ^ “ニッポン・ロングセラー考 Vol.005 ホンダ スーパーカブ - COMZINE”. NTTコムウェア (2003年10月). 2014年2月5日閲覧。
  24. ^ “”. 2016年5月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年12月16日閲覧。
  25. ^ a b 井深大 『わが友本田宗一郎』[要文献特定詳細情報][]
  26. ^ 本田宗一郎 『私の手が語る』[要文献特定詳細情報][]
  27. ^ “浜松市の名誉市民”. 浜松市. 2022年8月11日閲覧。
  28. ^ a b c “本田 宗一郎とは”. コトバンク. 2021年4月17日閲覧。
  29. ^ “【11/17本田宗一郎氏と米国自動車殿堂。】 カーライフを楽しむ365日 - 日産ドライブナビ”. drive.nissan.co.jp. 日産自動車. 2021年4月17日閲覧。
  30. ^ “プロフィール/名誉市民”. 鈴鹿市. 2022年8月11日閲覧。
  31. ^ "NHKスペシャル 我が友 本田宗一郎〜井深大が語る"技術と格闘した男"〜". NHK. 1991年12月15日. 2023年2月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月20日閲覧

参考文献

  • 『Mr.HONDA Forever』(1991年・本田技研工業、社内報『ポールポジション』の追悼特別版)
  • 『HONDA 50years ホンダ50年史』(1998年・八重洲出版
  • 井出耕也『ホンダ伝』(2002年・ワック
  • 中部博『定本 ホンダ宗一郎伝 飽くなき挑戦 大いなる勇気』(2001年・三樹書房
  • 藤沢, 武夫『経営に終わりはない』〈文春文庫〉1998年。 
  • 佐藤正明『ホンダ神話 教祖のなき後で』(1995年・文藝春秋/新版:2008年・文春文庫 全2巻)
  • 城山三郎『本田宗一郎との100時間 人間紀行』(1984年・講談社/新版:2010年・PHPパブリッシング)
  • 海老沢泰久『F1地上の夢』(1987年・朝日新聞社、のち朝日文庫)
  • (富樫ヨーコ)『いつか勝てる ホンダが二輪の世界チャンピオンに復帰した日』(1988年・徳間書店
  • 井深大『わが友本田宗一郎』(1991年・ごま書房/新版:2010年・ごま書房新社)
  • 梶原一明『本田宗一郎 思うままに生きろ』(1992年・講談社、のち講談社文庫)
  • 『本田宗一郎の見方・考え方』(2007年・PHP研究所)

関連項目

外部リンク

  • 本田技研工業株式会社
  • 東海精機株式会社
  • アート金属工業株式会社 (アート商会の後身)
  • 株式会社アート商会 (アート商会浜松支店の後身)
  • 本田宗一郎ものづくり伝承館 (NPO法人本田宗一郎夢未来想造倶楽部が運営)
  • 本田宗一郎 - NHK人物録
  • 『(本田宗一郎)』 - コトバンク
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