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本州アイヌ

本州アイヌ(ほんしゅうアイヌ)とは、かつて本州北部に居住していたアイヌ系民族である。弘前藩(津軽藩)や盛岡藩(南部藩)などの文書から、江戸時代の時点で本州北端(現在の青森県)での居住が確認できる(文書には「狄」や「夷」として登場する)[1]

前史

古代東国東北地方関東地方)の蝦夷(えみし)をアイヌまたはその祖先とする説があるが、「蝦夷」の定義が時代によって変動しているため断定できない[2]

山田秀三らによれば、仙台市付近以北(太平洋側)・秋田県以北(日本海側)には明らかにアイヌ語と解釈できる地名が分布し((アイヌ語#本州島の地名)参照)、この地域については続縄文文化の後北式土器の分布と重なるとの指摘もある[3]。東北縄文人の遺伝子は関東縄文人に比して北海道縄文人に近縁であるというデータもあり[4]、本州北部の先住民とアイヌの関連性を示唆する。

中世

中世においては、津軽海峡を挟んだ蝦夷地津軽半島下北半島の間で交流が盛んに行われ、特に津軽半島北西部の十三湊は交易拠点として栄えた。海峡を挟んでの交易はその後も松前藩商場知行制で自由交易を制限するまで活発であったと推定され、『津軽一統志』によると石狩アイヌの首長ハウカセが「我々先祖は高岡(弘前の旧称)へ参、商仕候」と述べたという[5]

南部町にある(三戸南部氏)の居館聖寿寺館跡からは、「シロシ」と呼ばれる刻印の入った陶磁器やクマの犬歯を加工した装飾品など、様々な中世アイヌ文化特有の出土品が見つかっており、居館内で和人とアイヌが長期間共生していた可能性が指摘されている[6]

近世津軽

戦国時代末期、鼻和郡各地で大浦氏(のちの津軽氏)とアイヌの間で「蝦夷荒(えぞあれ)」と呼ばれる抗争があった(『津軽徧覧日記』)ほか、1581年(天正9年)に中村(現・鯵ヶ沢町)で「狄蜂起」を鎮圧し(『由緒書抜 上』)、同時期に喜良市村(現・金木町)で「狄之酋長」を討ち取った(『由緒書抜御目見以下之面々』)との記録がある[7]

1645年正保2年)の『(陸奥国津軽郡之絵図)』には、津軽半島北端の三厩(現・外ヶ浜町)周辺、半島北西端の小泊(現・中泊町)周辺、夏泊半島北端(現・平内町)に「狄村(えぞむら)」が記されている。『津軽一統志』には、1669年寛文9年)時点で津軽半島に計42軒の「狄家」が存在したと記されている[5]。この頃蝦夷地で起こったシャクシャインの戦いでは、弘前藩の出兵に際して津軽のアイヌが通訳や交渉役として随行している[8]

当時の津軽半島のアイヌは漁労中心の生活で僅かな畑しか持たず[5]、海産物・熊皮・貝の玉・オットセイ・鷹などを藩に献上することで米や金銭を得ていた[9]。献上儀式は「御目見」と呼ばれ、「狄装束」を着用して行われた[1]。寛文から元禄までの弘前藩の御目見の記録からは「かふたいん」「るてるけ」「へきりは」「ちせかる」などの人名が確認できる[9]。藩の統制のもと、小廻(領内の海運)に携わる者(「狄船」と称された)や往来で宿を営む者もいた[9]

1756年宝暦6年)、乳井貢の改革で外が浜の「狄」は人間として扱われるようになり、1806年文化3年)には「王民」に編入され、他の領民との格差が解消されていったが、それは一方で、漁業などでの特権喪失と藩からの諸役負担を意味し、和人への同化を促すものであった[9]。宝暦の改革時には、同化を拒んで山中に逃げ込む者もいたという[9]

近世下北

下北半島ではこれまでに、脇野沢村(現・むつ市)でアイヌ刀が、東通村尻屋崎近くの大平貝塚(17世紀後半頃)で北海道のアイヌが海獣類の捕獲に用いる銛頭が発見されている[1]。近世下北のアイヌに関する文献資料は津軽と比べて少ないが、1665年(寛文5年)7月21日の盛岡藩雑書に、御目見のために田名部(現・むつ市)から盛岡に呼ばれた3人の「夷」が暇乞いの際に南部重信から「夷太刀」を下賜されたとの記録がある[1]。また、脇野沢村にある悦心院の過去帳には、1715年正徳5年)と1723年享保8年)に死亡した男性に「ゑびす」との記載がある[1]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e #関根(2004)
  2. ^ 昭島市デジタルアーカイブズ/あきしま 水と記憶の物語
  3. ^ 新谷正隆:西木村のアイヌ語地名、秋田地名研究年報20(2004)19-27.
  4. ^ Shinoda, Ken-ichi, and Satoru kanai(1999)Intracemetery enetic analysis at the Nakazuma Jomon site in Japan by mitochondrial DNA sequencing. Anthropol.Sci. 107: 129-140.
  5. ^ a b c #新編弘前市史、256-259頁
  6. ^ “中世アイヌと関係か、クマの歯装飾品出土 青森・南部”. 河北新報. (2022年2月5日). https://kahoku.news/articles/20220204khn000045.html 2022年7月4日閲覧。 
  7. ^ #新編弘前市史、10-13頁
  8. ^ #新編弘前市史、270-271頁
  9. ^ a b c d e #新編弘前市史、271-274頁

参考文献

  • 浪川健治「本州アイヌにおけるイオマンテ儀礼の可能性 : 解明へのアプローチとその方法をめぐって」『北海道大学総合博物館研究報告』第4号、北海道大学総合博物館、2008年3月、133-138頁、ISSN 1348-169X、NAID 120000947275。 
  • 関根達人「本州アイヌの生業・習俗と北奥社会」『北方社会史の視座 歴史・文化・生活』第1巻、清文堂出版、2007年12月
  • 関根達人「副葬品からみたアイヌの歴史と文化--本州アイヌを視野に入れて」『東奥文化』第75号、青森県文化財保護協会、2004年3月、1-16頁、ISSN 13437380、NAID 120001331241。 
  • 「新編弘前市史」編纂委員会編『新編弘前市史 通史編2(近世1)』弘前市企画部企画課、2002年6月https://adeac.jp/hirosaki-lib/top/topg/ichiran.html 

関連項目

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