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生涯
安政4年(1857年)、大身旗本本多忠寛(後に西端藩の初代藩主)の長男として江戸で生まれる。慶応3年(1867年)5月20日、父が病気を理由に隠居したため、家督を継いで藩主となる。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に与して尾張藩に属した。また、(西端陣屋)を改築している。
明治2年(1869年)6月、農兵を徴兵して洋式訓練を行なっている。直後の6月23日、版籍奉還により西端藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県後は西端県知事に任じられるが、11月の新県合併で額田県と合併して愛知県に編入されたため、罷免されて東京へ移った。
明治17年(1884年)5月、宮中祗候に任じられる。同年7月、華族令に伴い子爵を授爵した。明治24年(1891年)9月、裁判所から家産分散の宣告を受ける。この頃の本多家は経済的に傾いていたと考えられる。
家族
父母
- 本多忠寛(父)
子女
- (本多辰男)