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本多 忠典(ほんだ ただつね)は、江戸時代中期の大名。三河国岡崎藩の第2代藩主。官位は従五位下・中務大輔。忠勝系本多家宗家12代。
生涯
宝暦14年(1764年)1月24日、石見国浜田藩主・本多忠盈の次男として石見浜田にて誕生。安永6年(1777年)に岡崎藩主・本多忠粛が死去したため、その養子として家督を継ぐ。しかし本多氏は、相次ぐ移封で財政難となる。そのため、幕府に豊かな土地への移封を願い出るが許されず、代わって安永7年(1778年)に1万両を10年かけて与えられることとなり、諸役も免除されることとなった。天明3年(1783年)には預かり地を与えてもらうように幕府に願い出るが、これも許されなかった。
寛政2年(1790年)8月26日、江戸で死去した。享年27。跡を養子・忠顕(松平頼謙の次男)が継いだが、相次ぐ藩主の早世と養子問題から、死後に藩内で家督抗争が起こった。
系譜
父母
正室
- 了智院 ー 秋元永朝の娘
養子