概要
系譜
俊正の本多家は(藤原光秀)を祖とし、本多助秀(右馬允とも)ー本多助定ー本多助政ー本多定正[2]ー本多定吉ー本多正明[3]ー本多忠正(角膳、學禪とも)ー本多正定[4]ー俊正として続いてきた。
本多正明から通称が「彌八郎(弥八郎)」となり、本多忠正から國西城主として勢力の拡大が見え始める。
略歴
三河国の土豪・本多正定の子として誕生。弟に本多八左衛門(眞慶とも)がいる。
彌八郎、又は佐渡守と称した。
永禄元年(1558年)に北三河衆が反乱を起こすと、元康は今川義元の命令で討伐にかかる。
元康の初陣であるため忠尚家臣の俊正や大須賀康高、榊原長政(榊原康政の父親)といった歴戦の武将が付き従った。
東広瀬城攻め
反乱の代表三宅一族を率いる東広瀬城主・(三宅高貞)の討伐が始められる。大将は酒井忠尚と(佐久間秀孝)。
酒井忠尚率いる第一軍に俊正・榊原長政・大須賀康高・高木重正、松平家次((梅坪城)主)率いる第二軍に(三宅政貞)((伊保城)主。先の戦いで臣従)・細井勝宗、(恩大寺祐一)率いる第三軍に猿渡勘鉄斎、吉良義昭、(中条常隆)率いる第四軍に米津政信・伊奈貞政・碧海準行、その他松平信一や伊奈忠家、大河内基高らが従軍し、高貞を追い払う。
永禄3年(1560年)に高貞の一門・三宅高清が東広瀬城にて反乱を起こすと再び出陣し、討伐している[5]。
徳川直臣に
俊正の主君・忠尚が永禄6年(1563年)に謀反を起こすと翌永禄7年(1564年)9月まで元康と戦った。この際俊正らは徳川家に臣従している。同年三河一向一揆が起こると、一揆方に息子の正信・正重が付き、戦後正信は逃亡、正重は臣従している。一方の俊正は元康方に付き、戦後は周鎭と称して元康の鷹匠となった。
参考資料
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- 『寛政重脩諸家譜』文化9年
- 『松平記』
- 霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成』 下巻、1996年。
- 丹羽基二、樋口清之監修『姓氏 : 姓氏研究の決定版』秋田書店、1970年。
- 柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』平凡社、2017年。