歴史
明治時代の名古屋には、南桑名町の千歳座、本重町の新守座、南伏見町の音羽座、大須の宝生座、御園座などが存在していた[2]。劇場の名称は変遷を経ており、1872年(明治5年)に末広座、1877年(明治10年)愛栄座、1882年(明治15年)に末広座に再改称されたとする[3]。
劇場のある末広町で生まれ、末広座の子役として活躍した人物に、のちに著名な俳優となった(6代目中村傳九郎)がいる[4]。また、7代目市川中車と7代目市川團吾は、1909年(明治42年)5月に末広座において共演し[5] [6] 、3代目中村時蔵は1917年(大正6年)5月に出演している[7]。
1896年(明治29年)、アメリカの発明家チャールズ・フランシス・ジェンキンスとトーマス・アーマットが開発した「ファントスコープ」をトーマス・エジソンが「ヴァイタスコープ」として商品化すると、翌1897年(明治30年)1月、大阪・心斎橋で雑貨商を営んだ荒木和一によって「荒木系ヴァイタスコープ」の興行が始まり、末広座では同年3月1日から14日まで開催。これが名古屋における最初の映画興行とされている[8]。
この建物は、歌舞伎に深いつながりのある松竹に買収され、1927年(昭和2年)に映画館に改築された。名称も「松竹座」とされ、末広町を代表する映画館ともなった。しかし、第二次世界大戦中の名古屋大空襲により破壊された[8]。
その後、末広座跡地を古川為三郎率いるヘラルドグループが取得し、1964年(昭和39年)12月25日、「中日シネラマ会館」(後に映画館部分がヘラルドシネプラザと改称)が開業。2004年(平成16年)2月22日に完全閉館するまで、映画館とレジャー施設を擁する商業ビルとして親しまれた[9]。2019年(平成31年)2月19日、ヘラルドシネプラザ跡地に高層マンション「栄タワーヒルズ」が竣工し、現在に至る。
脚注
- ^ A Handbook for Travellers in Japan - Google ブックス
- ^ “名古屋財界の集まり・九日会を作る|愛知千年企業-明治時代編”. www.nagoya-rekishi.com. 2021年1月5日閲覧。
- ^ “愛栄座のあった場所と、いつからいつまであったのかを知りたい。 | レファレンス協同データベース”. 2021年1月5日閲覧。
- ^ “NAKAMURA DENKURÔ VI”. www.kabuki21.com. 2021年1月5日閲覧。
- ^ “ICHIKAWA DANZÔ VII”. www.kabuki21.com. 2021年1月5日閲覧。
- ^ “ICHIKAWA CHÛSHA VII”. www.kabuki21.com. 2021年1月5日閲覧。
- ^ “NAKAMURA TOKIZÔ III”. www.kabuki21.com. 2021年1月5日閲覧。
- ^ a b 伊藤紫英『シネマよるひる 改稿名古屋映画史 8mmから70mmまで』自費出版、1984年、pp.149-153
- ^ 相次ぐ都心の閉館 どうなる名古屋地区映画館(上)競争激化で独自色模索 繁華街で“復興”目指す 中日本興業 郊外型シネコン充実 東宝 『作品で勝負』名演小劇場」『中日新聞』、2004年2月14日
外部リンク
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- 番番附/名古屋末広座