人物
牛鍋チェーン店"いろは"経営者木村荘平の正妻の十二男として、東京市芝区三田四国町(現在の東京都港区芝)の"いろは"本店に生まれる。幼くして父を亡くし、4歳から二代目木村荘平夫妻に育てられる。小学校卒業後、奉公に出されたが、異母兄(木村荘五)に引き取られて教育を受け、荘五と共に新しき村に参加。
1924年に映画界入りを果たし、1930年『百姓万歳』で映画監督デビュー。1932年、新興キネマをストライキで解雇される。
1933年、自らの独立プロダクション音画芸術研究所とピー・シー・エル映画製作所(東宝の前身)の提携で、社会派映画『河向ふの青春』を作る。
以後はPCLに所属。軽喜劇『音楽喜劇 ほろよひ人生』(1933年)などを経て、1936年、室生犀星原作の『(兄いもうと)』や三好十郎原作の『彦六大いに笑ふ』で進境を示し、PCLの代表的監督と目されるに至った。
1941年、満洲映画協会に移り、当地で敗戦を迎える。戦後も大陸に残って中華人民共和国の文化工作に協力。1953年に帰国してからは、『森は生きている』(1956年)など児童映画や反核映画を作り、日本共産党に入党した。
1986年、(日本映画復興会議)から特別功労賞を受ける。
異母姉木村曙や異母兄木村荘太、異母弟木村荘十はいずれも作家。異母兄木村荘八は画家。
妻は木村静江。1970年代以降は東京都江東区大島在住。地域の子供向けに、定期的に映画上映会を開催した。
監督作品
- (百姓万歳)(1930年)
- (都会病患者)(1931年)
- (沈黙の愛)(1931年)
- (故郷)(1931年)
- (陽気な食客)(1932年)
- (笑ふ父)(1932年)
- 河向ふの青春(1933年)
- 音楽喜劇 ほろよひ人生(1933年)
- (純情の都)(1933年)
- 只野凡児 人生勉強(1934年)
- (さくら音頭 涙の母)(1934年)
- (続・只野凡児)(1934年)
- (エノケンの魔術師)(1934年)
- 放浪記(1935年)
- (三色旗ビルディング)(1935年)
- (都会の怪異七時三分)(1935年)
- (女軍突撃隊)(1936年)
- (魔術の女王)(1936年)
- 兄いもうと(1936年)
- (母なればこそ)(1936年)
- 彦六大いに笑ふ(1936年)
- (からゆきさん)(1937年)
- (日本女性読本)(1937年)
- (新選組)(1937年)
- (牧場物語)(1938年)
- (揚子江艦隊)(1939年)
- 海軍爆撃隊(1940年)
- (蘇少妹)(1945年)
- 森は生きている(1956年)
- (長崎の子)(1956年)
- (うなぎとり)(1957年)
- (千羽鶴)(1958年)
- (お母さんの幸福)(1958年)
- (海ッ子山ッ子)(1959年)
- (海の恋人たち)(1960年)
- (暴れん坊大将)(1960年)
- (未来につながる子ら)(1962年)
外部リンク
- 日本映画データベース