木曾 義昌(きそ よしまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。信濃国木曾谷の領主木曾氏の第19代当主。幼名は宗太郎。左馬頭、伊予守。木曾義康の長子。弟に上松義豊。正室は武田信玄の娘・真竜院(真理姫)。子に千太郎、義利、(義春)、(義通)、娘(毛利高政正室)などがいる。
生涯
木曾氏は断絶した源義仲の嫡流に連なる名族を自称しているが、そのような内容の系図が南北朝時代に作成されたのではないかと指摘されている[1](ただし直系の先祖は藤原北家秀郷流を称している)。
出自
天文9年(1540年)、 木曾義康の嫡子として誕生した。当初は小笠原氏や村上氏らと共に甲斐の武田信玄の信濃侵攻に対抗したが、弘治元年(1555年)に更なる侵攻を受けて武田家に降伏した。木曾氏が隣接する美濃・飛騨との国境地帯を押さえていたため、信玄は、義昌に三女[注 2]の真理姫を娶らせ[2]、武田家の親族衆として木曽谷を安堵した。なお、この真理姫の輿入れについては、同時代の確実な史料で確認することはできない[3]。しかし実際には主だった家臣や親族を甲府に人質として置き、木曽の治世はすべて武田家の監視の元で行われたのであって、甲斐国の属国化を余儀なくされた。これにより木曾谷は、武田家の美濃や飛騨への侵攻における最前線基地となった。
永禄3年(1560年)、御嶽山に登拝して崇敬したことが知られている[4]。
元亀3年(1572年)秋、信玄は西上するために、義昌に長坂峠を越えさせて、日和田口(高根村)から飛騨に攻め込ませて三木氏を攻撃させた。土豪の檜田次郎左衛門尉は、これを防いだものの戦死した。信玄は、この功績により、義昌家臣の山村良利と子の山村良候に美濃蘇原荘安弘見郷300貫と千旦林村と茄子川村の地を与えた。(西筑摩郡史・濃飛通史)
天正元年(1573年)8月、義昌が美濃国恵那郡の河折籠屋を攻め落とし、さらに苗木遠山氏の苗木城を攻めた。天正2年(1574年)には武田信玄の命により美濃国恵那郡の阿寺城を攻め、城主の明照遠山氏の(遠山友重)は討死を遂げた。信玄の死後、高天神城の戦いに敗北して凋落を見せはじめた武田家の行く末に不安を抱くと共に、義兄の武田勝頼による新府城造営の賦役増大と重税に不満を募らせた義昌は、天正9年(1581年)8月26日に苗木遠山氏の遠山友忠より織田信忠からの武田攻めの準備に関する書を送られている[5]。天正10年(1582年)1月、遠山友忠を通じて織田氏の調略に応じ実弟上松義豊を人質に出し、武田勝頼から離反した[6]。これを契機に信長の甲州征伐のきっかけを作ることになった。勝頼は人質として送られていた70歳の母、側室、13歳の嫡男・千太郎、17歳の長女・岩姫を新府城で処刑した上で武田信豊を将とする討伐軍を木曽谷に向けて派遣するが、義昌は地の利を得た戦術と織田信忠の援軍を得て鳥居峠でこれを撃退する。
武田家滅亡後
武田家滅亡後は、信長に出仕した。信長は義昌に梨子地の太刀と黄金100枚を与えた。さらに信濃で二郡を与えるとの内命を伝えたとされ[7]、深志城(後の松本城)に城代を置いて木曽の他・松本・安曇地方経営の拠点とした。しかし僅か3ヶ月後に本能寺の変が勃発すると、信濃国内も新たな支配権を巡って混乱し、義昌は中信濃の所領を放棄して美濃へと逃げる森長可の命を狙ったが、企みに気付いた長可に木曽福島城に押し入られ、逆に子の岩松丸(後の木曾義利)の身柄を拘束されてしまう。
岩松丸を人質に取られたことで義昌はやむなく遠山友忠など長可をよく思っていなかった近隣の諸将にも森軍に手出しをしないように依頼して回り、むしろ長可の撤退を助ける役目を負わされた。また、変後の信濃の混乱を好機と見た深志の旧領主・小笠原氏の旧臣が越後国の上杉景勝の後援を受けて前信濃守護・小笠原長時の弟である洞雪斎を擁立し、木曾方は深志城を奪われ、本領木曽谷へ撤退するに至った。 武田家の遺領を巡り上杉景勝と徳川家康・北条氏直の三者が争うと(天正壬午の乱)、初めは氏直に従っていたが、8月の甲州黒駒合戦での後北条軍の敗北と、旧主の織田信孝の意向を仰ぎ[8]、9月には家康に寝返り、他の信濃国衆から集めた人質を引き渡し、その代わりに再度安曇・筑摩両郡および木曽谷の安堵を受ける約定を得た。ところが、家康が小笠原長時の子・貞慶の深志城復帰を認めたことから、天正12年(1584年)、家康と羽柴秀吉の対立による小牧・長久手の戦いに呼応して、三男・義春を人質として秀吉に恭順。徳川勢を妻籠城にて迎え撃ち、撃退している。天正14年、秀吉と家康の講和により、木曾氏を含めた信濃の諸将は家康の傘下に入り、地方的な部将としての木曾氏の独立性は失われた[9]。秀吉の北条攻めには病床におり出陣はできなかった[10]。
晩年
天正18年(1590年)、家康の関東移封に伴い、家康から下総国阿知戸(現在の千葉県旭市網戸)1万石が与えられて木曽谷を退く。領主にとって木曾の土地資源は、今日でも全体の九割五分を占める山林であることから[11]、木曾の山林に着目した秀吉から木曾を没収され阿知戸を与えられたとする説もある[12]。同年12月、下総国三川村に到着、(東園寺)に居住し、芦戸地域を整備し、天正19年(1591年)3月、(芦戸城)(阿知戸)に入る[13][14]。城の南には市場を開けるように町作りが計画された[13]。天正18年12月12日、千村良重に対して、十日市・へびぞね700石の知行と箕広66貫文の代官職を宛行う[13]。没年は、文禄4年(1595年)2月13日、同年3月17日、慶長元年(1596年)7月13日の三説がある[15]。家督は義利が継承した。
法名は東禅寺殿玉山徹公大居士[13]。墓所は千葉県旭市網戸の東漸寺(旧名は東禅寺)にあり、遺体は城の西方椿海に水葬され、干潟になってから改めて墳墓をつくった[13]。寛文11年(1671年)、椿海は干拓され干潟8万石と称される田園地となった。現在、その一角に(木曾義昌公史跡公園)が造られ、義昌の銅像がある。
子孫
義昌の死後、義利は叔父・上松義豊を殺害するなどの乱暴な振る舞いにより、慶長5年(1600年)に改易に処されたとされる。義利は浪人し、その後蒲生氏を頼り、蒲生氏の伊予松山転封に随行、そのまま同地に居住したとされるが、阿知戸を退去した後の義利に関しては、確たる史料に基づく消息は残っていない。改易に際しても、「下総国に流罪」とする説と単に「追放」とする説がある。また、寛永16年(1629年)に伊予松山で没したとする説もあるが、確証は無い。その子の玄蕃(義辰)(よしとき)は久松松平家に仕えたが後に故あって浪人し、その子らは最終的には親族であった千村氏・山村氏を頼り後ろ盾に頼むことにより尾張藩ほかに召し抱えられる[16]。
義昌には他に三男・(義春)(義成)と四男・義一(義通)がおり、義春は大坂の陣における豊臣秀頼の浪人募集に応じ大坂城に入って戦死した[17]。義一は母の真竜院と共に木曽谷で隠遁しとされるが、その後や子孫に関しては伝わっていない。
大名家としての木曽家は消滅したが、その名跡と領地(総禄高16,200石にのぼる)は家臣(親族)であった千村氏・山村氏などの木曾衆が継承した。甥・義重の子上松義次は上杉定勝の近習となり、米沢藩に仕えた。
関連作品
- 小説
- 伊東潤『木曾谷の証人』(『戦国鬼譚 惨』収録の短編)
画像集
木曽義昌公遺跡水葬跡石塔(千葉県旭市イの2801-1)
木曽義昌公像(木曽義昌公史跡公園ショッピングセンターサンモール側)
東漸寺正門(千葉県旭市網戸網戸城跡)
木曽義昌及び夫人、ならびに木曽家代々供養石塔(千葉県旭市イ2337)
脚注
注釈
出典
- ^ 『木曾福島町史 上巻』77-79頁
- ^ 日義村誌編纂委員会 編『日義村誌 歴史編 上巻』1998年、243頁。
- ^ (笹本正治)『信濃の戦国武将たち』宮帯出版社、2016年、210頁。
- ^ 菅原壽清; 時枝務; 中山郁 編『木曽のおんたけさん-その歴史と信仰-』岩田書院、2009年、82-83頁。
- ^ 『木曾福島町史』134頁
- ^ 平山 2015, p. 13.
- ^ 平山 2015, p. 35.
- ^ 平山 2015.
- ^ 旭市史3, p. 1001.
- ^ 旭市史3, p. 1002.
- ^ 所三男「木曾の検地」『信濃』8巻12号、1956年。
- ^ 旭市史1, p. 53.
- ^ a b c d e 旭市史1, p. 54
- ^ 竹内英春『義仲と木曽義昌』(私家版)、1993年。
- ^ 旭市史3, pp. 1008–1009.
- ^ 小高春雄「旭市東漸寺の伝木曽氏石塔について」『房総の石仏』20号、2010年。
- ^ (柏木輝久)、北川央監修『大坂の陣 豊臣方人物事典』宮帯出版社、2016年。
参考文献
外部リンク
- 旭人物伝 | 旭市市勢要覧2018 - 旭市公式ホームページ