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朝原内親王

朝原内親王(あさはらないしんのう/あしたはらないしんのう)は、桓武天皇の第一皇女[1]。母は酒人内親王で、両親は異母兄妹になる。伊勢斎王。後に退下し、異母兄の平城天皇の妃となる。母系3代(井上内親王、酒人内親王、朝原内親王)の伊勢斎王。

生涯

天応2年(782年)8月1日、4歳で斎王に卜定延暦4年(785年)4月23日に造斎宮長官が、7月21日に(斎宮寮頭)・賀茂人麻呂が任命され、8月24日に旧都の平城京で発遣の儀式を執行、9月7日、賀茂人麻呂や斎宮内侍従五位下・藤原栄子、その他乳母女官たちに付き添われて伊勢へ下向、9月15日に斎宮に到着した。なお、内親王のこの下向は、発遣の儀に桓武天皇が長岡京から平城京へ行幸したり、大和国国境まで天皇と百官が見送るという異例のものであった。

延暦15年(796年)2月15日、斎宮で斎王解任のための奉幣使が立てられ、3月15日には平安京から内親王の帰京を求める(奉迎使)左少弁兼左兵衛佐・橘入居が差遣され、これにより身内の不幸がなかったにもかかわらず18歳で退下、帰京している。帰京後の7月9日、桓武天皇の皇女たちの中では最初に三品に叙せられた。12月14日には桓武天皇が京中巡幸の途中、内親王邸を訪ねて、従五位以上の人々に物を賜った[2]。この後、異母兄の安殿親王(後の平城天皇)と結婚した。

延暦17年(798年)9月19日、越後国の田地250を与えられた。大同元年(806年)3月17日に桓武天皇が崩御、5月に平城天皇即位すると、それにともない妃となった。その後、平城天皇が大同4年(809年)4月に弟・嵯峨天皇譲位、翌5年(810年)にはいわゆる「薬子の変」が起きたが、内親王は平城上皇とは行動をともにせず、弘仁3年(812年)の5月、異母姉妹の大宅内親王と揃って妃の位を辞した[3]

弘仁8年(817年)4月6日に病に臥し、嵯峨天皇が遣わした6人の僧たちが病気平癒を祈ったが、4月25日、39歳で薨去した。その遺言は、春に父・桓武天皇のために大般若経を、秋に母の酒人内親王のために金剛般若経を唱えさせるために、自らの所領地を東大寺施入するという内容であったため、それに従い翌弘仁9年(818年)3月27日に母酒人内親王から東大寺へ、大般若経と金剛般若経等が奉納され、美濃国厚見庄越前国横江庄越後国(土井庄)の墾田などが施入された[4]

脚注

  1. ^ 日本後紀』弘仁八年四月二十五日条
  2. ^ 『日本後紀』延暦十五年十二月十四日条
  3. ^ 『日本後紀』弘仁三年五月十六日条
  4. ^ 「酒人内親王献入帳」(正倉院文書)。[1]

参考文献

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