略歴
有川氏は桓武平氏頼盛流の池氏の後裔と称し、(貞世)の代に島津貴久に仕えたのが、薩摩国における始まりである。当初は有川氏を名乗っていたが、有川氏は伊勢国の小名であるとし、縁戚関係にある伊勢貞為の許しを得て、兄の貞末共々伊勢氏を名乗るようになり、兄共々薩摩における伊勢氏の祖となる。
永禄7年(1564年)、島津義弘に従い真幸院飯野[1]に入りその家老となる。同11年(1568年)1月20日、義弘に従い大口城攻めに参加、また、元亀3年(1572年)5月4日の木崎原の戦いの際には、出陣する義弘に代わって飯野城の留守居役を残りの20名の兵と共に務めた。この戦いにより日向伊東氏の勢力が弱まった翌元亀4年(1573年)、伊東氏の家臣であった須木城主の米良矩重、(奈佐木城)主の肥田木三郎兵衛尉、及び中山主計は貞真に対し起請文を提出し、島津に寝返る旨を表している。
天正9年(1581年)の水俣攻め、翌10年(1582年)八代入りと常に義弘に従い参陣、その頃に飯野地頭に任じられる。同14年(1586年)の豊後国入りの際にも義弘の供をしている。