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有山じゅんじ

有山 じゅんじ(ありやま じゅんじ、本名:有山 淳司1953年1月4日 - )は、日本歌手ギタリスト

有山じゅんじ
出生名 有山淳司
生誕 (1953-01-04) 1953年1月4日(70歳)
出身地 日本 大阪府
ジャンル フォークソングロックブルース
職業 歌手ギタリスト
担当楽器 ギター
活動期間 1968年 -
共同作業者
公式サイト 有山じゅんじのありやまなぺーじ

略歴

大阪府出身。1968年に「五つの赤い風船」に参加し、テレビ番組『ヤング720』に出演するなど、しばらく活動を共にしていたが、当時はまだ中学生だったため、高校受験を機に脱退。本人談によると、母がリーダーであった西岡たかしに、「頼むからやめさせてくれ」と訴えたとのこと。高校入学後様々な音楽を聴きながら活動を続ける。現在まで多大な影響を与えているブラインド・ブレイクを知ったのは、この頃友達に「こんな雑音ばっかりのレコード聴けへんから、やるわ」と言われて貰った戦前ブルースコンピレーション・アルバムだった。

また、ブルースやラグタイムに関わらず、フェアポート・コンヴェンションペンタングル等のブリティッシュフォークや当時のシンガーソングライターなども好んで聴いていた。大阪市西成区に住んでいた頃、本人曰く「岸里ジェームス・テイラーと呼ばれていた」。

1973年 「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」の結成に参加。当時のライブ・スタイルは、前半が戦前のカントリーブルースやラグタイム風のアコースティック・セットと、後半がバンドによるリズム・アンド・ブルースソウルミュージックに影響を受けたファンキーなセットの2部構成セットリストであった。

1975年6月 アルバム「上田正樹と有山淳司」名義で「ぼちぼちいこか」、同年12月アルバム「この熱い魂を伝えたいんや」発表。前者ではライブにおけるアコースティック・セットをスタジオで再現。同年発表される「憂歌団」の1stアルバム、「ウエスト・ロード・ブルース・バンド」1stアルバムに先駆けて発表された関西ブルース、ひいてはジャパニーズ・ブルースを代表する作品。後者はバンドスタイルのライブ盤である。当初、メンバーは2枚組での発表を考えていた様だが、レコード会社の意向で半年ずらしての発表となったそうである。2枚のアルバムを残し、1976年解散。

1977年 初のソロアルバム「ありのままじゅんじ」発表。ブルースやラグタイムに拘らない多彩なスタイルを自身のアコースティック・ギターの弾き語りを中心に展開。

その後はライブ活動を中心に活動。内田勘太郎とのユニット「有勘」で活動していたのもこの頃。

1988年 同じく五つの赤い風船出身であり、日本のフィンガー・ピッキング・ギター音楽の草分け、中川イサトとの競演盤「アフター・アワーズ」発表。

1990年 13年ぶりにソロ・アルバム「聞こえる、聞こえる」を発表。

1991年 サウス・トゥ・サウス再結成(それ以前にもライブでのみ1980年に再結成)。京都大学西部講堂でのライブは当時WOWOWで放送。「シンパイスナ・アンシンスナ」というタイトルで発表された。また、ソロアルバム「MAKE A JOYFUL NOISE」を発表。

1992年 サルサバンド、「ロス・ルンベロス」との競演盤「ハリー・ハリー・ハリー」を発表。自身の過去の楽曲を新たな解釈で再演する。

1993年 京都「磔磔」で内田勘太郎、ゴンザレス三上をゲストに迎えライブレコーディングされた「レア・ソングス」を発表。

1996年 「加川良 with TE-CHILI」に参加。アルバム「R.O.C.K」発表。ちなみに「TE - CHILI」の名は当時有山も好んで聴いていた「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ」の愛称「レッチリ」にちなんだもの。その名のとおり、加川の「教訓I」などを爆音のロックサウンドで演奏している。

1998年 「明日元気になれ」発表。木村充揮とのユニット「木村くんと有山くん」で同名のアルバムを発表。同時期にデビューした二人だが内田と違い、これまで余り交流はなかったそうである。

2004年 6年ぶりとなるソロアルバム「Thinkin’Of You」発表。

脚注

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出典

関連項目

外部リンク

  • 有山じゅんじのありやまなページ!!
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