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時葉山 敏夫(ときばやま としお、本名:春木 敏男(はるき としお)、1944年5月5日 - 1995年9月20日)は、石川県七尾市出身で、時津風部屋に所属していた元大相撲力士である。最高位は東前頭2枚目(1968年9月場所)。現役時代の体格は180cm、131kg。得意手は左四つ、寄り、掬い投げ[1]。
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基礎情報 | ||||
四股名 | 春木 敏雄 → 時葉山 敏夫 | |||
本名 | 春木 敏男 | |||
生年月日 | 1944年5月5日 | |||
没年月日 | 1995年9月20日(51歳没) | |||
出身 | 石川県七尾市 | |||
身長 | 180cm | |||
体重 | 131kg | |||
BMI | 40.43 | |||
所属部屋 | 時津風部屋 | |||
得意技 | 左四つ、寄り、掬い投げ | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 東前頭2枚目 | |||
生涯戦歴 | 523勝533敗7休(93場所) | |||
幕内戦歴 | 237勝301敗2休(36場所) | |||
優勝 | 十両優勝2回 幕下優勝1回 序二段優勝1回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1959年9月場所[1] | |||
入幕 | 1967年9月場所[1] | |||
引退 | 1975年3月場所[1] | |||
引退後 | 年寄・富士ヶ根 | |||
備考 | ||||
2013年8月25日現在 ■テンプレート ■プロジェクト 相撲 |
来歴
小学生時代から相撲を始め、七尾市立七尾東部中学校(当時東部中学校)では地元の大会で優勝するなど活躍した。中学3年生の時、立田川親方(元横綱・鏡里)の勧誘を受け、時津風部屋に入門。1959年9月場所で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、本名と同じ「春木」。
1966年7月場所、22歳で十両に昇進し、これを機に「春木」から「時葉山」に改名。そして、翌年9月場所にて23歳で新入幕を果たした。以降は、呼び戻し気味の掬い投げを武器に、闘志溢れる取り口で幕内中堅力士として長く活躍した。呼び戻し自体も2度決めている。関取の数が少ない時代の時津風部屋を支えた面もある力士である[1]。
しかし、三賞受賞や金星獲得は一度も成らず、三役昇進も果たせぬまま力士生活を終えている。ただし自己最高位の前頭2枚目で迎えた1968年9月場所では4勝11敗に終わったものの、3日目に玉乃島、10日目に琴櫻と2大関を破る殊勲の星を挙げている(ちなみに琴櫻は、その翌日から休場した)。仕切りでの相手を睨みつける仕草や、叩き付けるように塩を撒く動作にも持ち前の闘志を見せた。
仕切りの1回目から立つ構えを見せる事もしばしばで、-実際に立った事は殆んどなかったが-全く気のない相手力士が塩に戻りかけると、半歩突っかける素振りを見せたりして場内の喝采を浴びた[1]。彼のこの仕切りは、ファンサービスの意味合いもあった。
時葉山は12代時津風と14代時津風を比較して「先々代(双葉山)は、あまりにも偉大な人であっただけに、なかなか話をする機会もありませんでしたが、今度の親方は、自分の考えていることなどを率直に言って、よく聞いてもらっています。あと、若い衆に聞いたのですが、夜、大部屋で寝ているときに親方が来て、布団をかけ直していたそうです。すごく感激して、親方の下で一生懸命頑張ると言っていました」と述懐している[2]。
大関・豊山(後、年寄・錦島→同・時津風)の引退後、しばらく関取が少なかった時代の時津風部屋(13代時津風の部屋継承時点で幕内力士は時葉山、青ノ里のみ)を豊山(広)・双津竜・大潮らの成長まで支え、部屋の再発展に大きく貢献した[3]。1974年7月場所を最後に幕内の座から遠ざかり、西幕下13枚目に在位した1975年3月場所を以って、30歳で引退。
引退後は年寄・富士ヶ根を襲名し、時津風部屋付きの親方として後進の指導に当たったが、1986年頃に病気で倒れ長く平年寄として協会に在籍していた。
家族
主な戦績
- 通算成績:523勝533敗7休 勝率.495
- 幕内成績:237勝301敗2休 勝率.441
- 現役在位:93場所
- 幕内在位:36場所[1]
- 各段優勝
場所別成績
一月場所 初場所(東京) | 三月場所 春場所(大阪) | 五月場所 夏場所(東京) | 七月場所 名古屋場所(愛知) | 九月場所 秋場所(東京) | 十一月場所 九州場所(福岡) | |
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1959年 (昭和34年) | x | x | x | x | (前相撲) | 西序ノ口18枚目 6–2 |
1960年 (昭和35年) | 東序二段125枚目 6–2 | 西序二段73枚目 6–2 | 東序二段30枚目 3–5 | 東序二段37枚目 5–2 | 東三段目107枚目 3–4 | 西序二段17枚目 5–2 |
1961年 (昭和36年) | 東三段目98枚目 3–4 | 西三段目112枚目 4–3 | 西三段目81枚目 3–4 | 東三段目93枚目 1–6 | 西序二段筆頭 優勝 7–0 | 西三段目21枚目 4–3 |
1962年 (昭和37年) | 西三段目9枚目 2–5 | 東三段目17枚目 4–3 | 西三段目8枚目 2–2–3 | 東三段目20枚目 4–3 | 西三段目11枚目 5–2 | 西幕下85枚目 4–3 |
1963年 (昭和38年) | 西幕下75枚目 3–4 | 東幕下84枚目 4–3 | 西幕下76枚目 4–3 | 東幕下68枚目 優勝 7–0 | 西幕下2枚目 2–5 | 東幕下8枚目 3–4 |
1964年 (昭和39年) | 西幕下11枚目 3–4 | 西幕下13枚目 3–4 | 西幕下16枚目 4–3 | 東幕下13枚目 3–4 | 東幕下16枚目 5–2 | 東幕下8枚目 2–5 |
1965年 (昭和40年) | 西幕下17枚目 4–3 | 西幕下11枚目 5–2 | 東幕下4枚目 4–3 | 東幕下3枚目 2–5 | 東幕下11枚目 4–3 | 東幕下8枚目 5–2 |
1966年 (昭和41年) | 西幕下3枚目 4–3 | 東幕下3枚目 5–2 | 東幕下2枚目 5–2 | 西十両17枚目 8–7 | 西十両16枚目 8–7 | 東十両11枚目 6–9 |
1967年 (昭和42年) | 西十両16枚目 9–6 | 東十両10枚目 9–6 | 東十両9枚目 9–6 | 東十両5枚目 10–5 | 東前頭12枚目 6–9 | 西十両筆頭 9–6 |
1968年 (昭和43年) | 東前頭10枚目 9–6 | 東前頭5枚目 4–11 | 西前頭10枚目 8–7 | 西前頭6枚目 9–6 | 東前頭2枚目 4–11 | 西前頭8枚目 7–8[4] |
1969年 (昭和44年) | 東前頭10枚目 8–7 | 東前頭8枚目 10–5 | 東前頭3枚目 4–9–2[5] | 東前頭9枚目 6–9 | 西前頭11枚目 6–9 | 西十両筆頭 10–5 |
1970年 (昭和45年) | 東前頭11枚目 8–7 | 西前頭8枚目 10–5 | 西前頭3枚目 3–12 | 東前頭11枚目 8–7 | 東前頭5枚目 5–10 | 西前頭8枚目 8–7 |
1971年 (昭和46年) | 西前頭4枚目 6–9 | 東前頭6枚目 7–8 | 東前頭8枚目 8–7 | 東前頭4枚目 6–9 | 西前頭7枚目 8–7 | 東前頭5枚目 5–10 |
1972年 (昭和47年) | 東前頭9枚目 9–6 | 東前頭6枚目 7–8 | 東前頭9枚目 9–6 | 西前頭4枚目 5–10 | 西前頭9枚目 8–7 | 東前頭8枚目 6–9 |
1973年 (昭和48年) | 西前頭11枚目 8–7 | 西前頭8枚目 6–9 | 西前頭12枚目 9–6 | 東前頭7枚目 1–14 | 東十両3枚目 5–10 | 東十両11枚目 優勝 11–4 |
1974年 (昭和49年) | 東十両3枚目 9–6 | 西前頭12枚目 3–12 | 西十両7枚目 優勝 12–3 | 西前頭11枚目 3–12 | 東十両5枚目 6–9 | 西十両10枚目 2–13 |
1975年 (昭和50年) | 東幕下8枚目 3–4 | 西幕下13枚目 引退 2–3–2 | x | x | x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
改名歴
年寄変遷
- 富士ヶ根 敏男(ふじがね としお)1975年3月-1995年9月