明治村(めいじそん)は、鳥取県気高郡にあった自治体である。1896年(明治29年)3月31日までは高草郡に属した。
めいじそん 明治村 | |
---|---|
廃止日 | 1953年7月1日 |
廃止理由 | 編入合併 神戸村、大和村、美穂村、大正村、東郷村、明治村、豊実村、松保村、大郷村、吉岡村、千代水村、湖山村、末恒村、倉田村、面影村 → 鳥取市 |
現在の自治体 | 鳥取市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中国地方、山陰地方 中国・四国地方 |
都道府県 | 鳥取県 |
郡 | 気高郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 37.1 km2 |
総人口 | 2,363人 (国勢調査、1950年) |
隣接自治体 | 神戸村、東郷村、豊実村、松保村、吉岡村、鹿野町(初代)、(小鷲河村)、(西郷村) |
明治村役場 | |
所在地 | 鳥取県気高郡明治村大字松上137-3 |
座標 | 北緯35度26分35秒 東経134度08分09秒 / 北緯35.443064度 東経134.135758度座標: 北緯35度26分35秒 東経134度08分09秒 / 北緯35.443064度 東経134.135758度 |
ウィキプロジェクト |
概要
現在の鳥取市上段・尾崎・上原・細見・松上・槇原・河内に当たる。千代川支流野坂川の中・上流域に位置した。
この地方の製紙は藩政時代に池田藩の御用紙として用いられ、原料のミツマタが自給できるため有望な産業であった[1]。
1893年(明治26年)、1912年(大正元年)、1918年(同7年)では洪水毎に被害を受けてきた。特に1912年は死者9人を出し53戸流失、山崩れが4000箇所発生した。このため堤防改修と河川拡張工事が1933年(昭和8年)に着手され1945年(同20年)に完成した。
1893年(明治26年)4月に河内で火災により40戸を全焼し、1951年(昭和26年)5月にはまたも同地で27戸を全焼した[1]。
沿革
- 1889年(明治22年)10月1日 - 町村制の施行により、松上村・槇原村・河内村が合併して村政施行し、明治村(初代)が発足。旧村名を継承した3大字を編成。(穏治村)との組合役場を穏治村大字上原村に設置[1]。
- 1896年(明治29年)4月1日 - 郡制の施行により、高草郡・気多郡の区域をもって気高郡が発足し、気高郡明治村となる。
- 1914年(大正3年)2月1日 - 穏治村と合併して改めて明治村が発足し、合計7大字を編成。役場位置を大字上原村字西土居209番1に定める[3]。
- 1921年(大正10年)2月3日 - 役場位置を大字松上137番地3に変更[4]。
- 1953年(昭和28年)7月1日 - 鳥取市に編入。同日明治村廃止[5]。
行政
歴代村長
- 藤岡豊蔵 - 加藤新太郎 - 稲村久蔵 - 坂口伝十郎 - 稲村久蔵(再) - 竹内哲夫 - 加藤善市 - 沢田義治 - 徳田菊蔵 - 稲村辰蔵 - 稲村寿美 - 真嶋啓治 - 加藤松次郎 - 沢田義治(再) - 徳田義延 - 稲村寿美(再) - 加藤富治 - 加藤定治 - 坂口伝三郎[1]
教育
交通
村内を通る鳥取〜安蔵間の里道は、当時の山間部としては最も早く明治30年代に改修されて県道に編入された。その後、不便ながらも間に合っていたことから新しい改修は遅延される結果となり、鳥取〜河内間の県道が昭和初期に着工されたものの開通したのは1956年(昭和31年)であった[1]。