早竹 虎吉(はやたけ とらきち、生年未詳 - 慶応4年1月15日(1868年2月8日)は、幕末期の曲芸師、軽業師である。京都生まれ。(桜綱駒司)(のちの駒寿)とともに幕末の軽業二名人と言われた[1]。
人物・生涯
幼少期については、はっきりとした記録が残っていない。寺町誓願寺で軽業渡世に励んだ後、1842年(天保13年)に京都道場の芝居にて軽業[2]。1843年(天保14年)、大坂へ下って興行し、10年以上に渡って活躍した。
1857年(安政4年)正月、江戸に下って両国で[3]興行を始めるや否や、たちまち人気を博すようになった[4]。歌舞伎仕立ての衣装を身にまとい、独楽や手品の手法を取り入れた豪快な舞台を披露[5]。およそ2カ月の間に錦絵30数点が出版され、たちまちのうちに売れたという。曲差し(きょくざし)(竿から手を離して肩だけで支え、三味線を曲弾きするという非常に高度な芸)や石橋(しゃっきょう)(足で長い竿を支え、竿に人や動物を載せる芸)と呼ばれる、長い竿を足や肩で支える曲芸を得意とした。
慶応3年7月25日(1867年8月24日)、約30名の一座を率いて、虎吉は横浜を出発しアメリカに渡航した[6]。翌月にサンフランシスコに上陸。サンフランシスコのメトロポリタン劇場を振り出しに、サクラメントやニューヨーク等アメリカ各地を興行した。
フィラデルフィアのアカデミー・オブ・ミュージックでの興行(慶応3年12月30日(1868年1月24日)終了後、突如体調を崩し、慶応4年1月15日(1868年2月8日)に心臓病で客死した。その数日前より、一座を海外へ連れ出した外国人手配師の契約不履行などを訴え、揉めていたようである[7]。その後、明治7年(1874年)に実弟が二代目早竹虎吉を襲名した[8]。
技の例
早竹虎吉「富士旗竿」歌川国芳画。1857年
大坂下り 早竹虎吉(石橋の曲) "此所 所作事 早替り"歌川芳晴 1857年2月
脚注
関連項目
- 軽業 (落語) -「早竹虎吉の門人」という触れ込みの軽業師が登場する
- (浜碇定吉) - 幕末から明治初期に海外渡航した軽業師