日野 元重(ひの もとしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。毛利氏家臣で長州藩士。知行は1000石。父は日野景幸。弟に日野政重。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
---|---|
生誕 | 天正5年(1577年) |
死没 | 慶安2年7月25日(1649年9月1日) |
別名 | 通称:新次郎→七兵衛尉→三右衛門尉 |
官位 | 上総介、左近丞、(摂津守) |
主君 | 毛利輝元→秀就 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 清和源氏新田氏流日野氏 |
父母 | 父:日野景幸、母:杉原盛重の娘 |
兄弟 | 元重、(清八)、(五郎介)、政重、女((三刀屋孝和)室)、女((鷲見半四郎)室)、女(阿波国商人の妻)、(勝三郎)、(左助)、(九郎)、女((光永庄左衛門)室、(大村弥兵衛)室) |
妻 | 村上景親の娘 |
子 | (就征)、女(奈古屋隆忠正室)、(就忠)、(島亦右衛門)、(島宇右衛門)、女((赤川就久)室)、女((入江就勝)室) |
生涯
前半生
天正5年(1577年)、小早川隆景麾下の毛利氏家臣・日野景幸の嫡男として生まれる。
天正18年(1590年)、小田原征伐から帰国した父・景幸から所領を譲られる。景幸は次男の(清八)と共に小早川隆景の家臣となって筑前国に所領を与えられた。
慶長2年(1597年)2月14日に毛利秀元から「元」の偏諱を与えられ、2月17日には毛利輝元から「七兵衛尉」の官途名を与えられた。
慶長の役
慶長2年(1597年)から始まる(慶長の役)では秀元に従って朝鮮に渡った。同年12月22日から慶長3年(1598年)1月4日にかけて行われた(第一次蔚山城の戦い)においては(和智元盛)、(三刀屋孝和)、口羽元良、吉見広行ら毛利氏家臣に加え、加藤清正家臣の加藤重次や(近藤四郎右衛門)らと共に蔚山城の三の丸に籠城して戦い、負傷しつつも武功を挙げた。これにより、第一次蔚山城の戦いで功のあった毛利氏家臣を賞した、慶長3年(1598年)1月25日付の豊臣秀吉の朱印状に元重の名(日野新次郎)も記されている[1]。また、同年1月29日に輝元は(児玉元兼)を使者として、蔚山城での籠城戦の苦労をねぎらう旨の書状[2]を元重に送っている。
長州藩士
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後に毛利氏が長門国と周防国の2ヶ国に減封となると元重もそれに従い、長門国美祢郡伊佐郷の内の200石を与えられた。慶長12年(1607年)1月3日には輝元から「三右衛門尉」の官途名を与えられる。
関ヶ原の戦い後に毛利氏に帰参していた父・景幸が元和9年(1623年)6月12日に死去すると、景幸に与えられていた長門国美祢郡伊佐郷の内の540石と、長門国大津郡日置庄の内の460石、合計1000石の知行が元和10年(1624年)1月11日に元重に与えられ、元重に与えられていた長門国美祢郡伊佐郷の内の200石は弟の政重に与えられた。
脚注
- ^ 『毛利家文書』第914号、慶長3年(1598年)比定1月25日付 豊臣秀吉朱印状。この朱印状において名前を記されていたのは記載順に、宍戸元続、(浅口少輔九郎)、吉見広長、三沢為虎、(三吉元高)、天野元信、日野元重、内藤元盛、(三田元盛)、(和智元盛)、平賀元相、(三尾元尚)、(三刀屋孝和)、口羽元良、成羽親成、(桂元武)、(野山清衛門尉)、(石蟹市郎)、(伊達三左衛門尉)、(赤木元重)、周布長次、市川元好、(吉田元重)、(馬屋原弥衛門)、楢崎政友、(福頼元秀)、(有地元盛)。
- ^ 『閥閲録』巻29「日野要人」第2号、慶長3年(1598年)比定1月29日付 日野新二郎(元重)宛て毛利輝元書状。