市川 元好(いちかわ もとよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の家臣。父は(山口奉行)を務めた市川経好。
生涯
毛利氏家臣で(山口奉行)を務めた市川経好の次男として生まれる。
天正6年(1578年)、兄の元教が大友宗麟と内通して反乱を企てていることが露見し、父・経好の命を受けた(内藤元輔)や雑賀隆利らによって討ち取られた。元教の追討に伴い、以後は元好が嫡男となった。
天正12年(1584年)10月29日に父・経好が死去したため家督と山口奉行職を引き継ぎ、天正14年(1586年)から始まる豊臣秀吉の九州平定では、毛利輝元の命を受けて出陣している。
しかし、山口奉行の機構は周防国と長門国の支配に関しての権限が大きく、毛利家の中央行政機構の意に従わないこともしばしばあったため、輝元にとって廃止すべき中間機構となった。また、この頃の山口奉行には(国司元信)や(黒川兵部丞)も参画していたが、それぞれの父である国司就信や(黒川著保)もかつて山口奉行に参画していたことから、奉行職が世襲化する傾向を示していた。そこで、輝元は惣国検地の実施に伴い、天正16年(1588年)に元好の出雲国への給地替えを行い、奉行職の世襲化を断ち切ろうとしている。
天正20年(1592年)10月5日に死去。嫡男の(元直)が後を継いだが、元直は(文禄の役)に従軍して同年12月27日に朝鮮で戦傷死したため、元直の嫡男である(元栄)が幼少ながら後を継いだ。