日本とエジプトの関係(にほんとエジプトのかんけい、アラビア語: العلاقات المصرية اليابانية、英語: Egypt–Japan relations)は、日本とエジプトの間の国際関係である。エジプトの漢字表記「埃及」から日埃関係とも。両国は相互に大使館を設置しており、駐日エジプト大使によって「とても強い友好関係」にあると評価されている[1][2]。現在、この二国は、経済・貿易関係で大きな関係を持っている[3]。
日本は、エジプトは中東の中心的存在になると考えており、エジプトをこの地域内での外交上不可欠な国としてみている[4]。二国の指導者は、中東の和平に関する問題について互いに支援し合っていることで知られている[5]。
二国間には、両国の互いの利益進展の調査を行う協議会を置いている[6]。
2021年時点で、719人の日本国民がエジプトに、1,933人のエジプト国民が日本に在住する[7]。2009年には90,000人の日本人がエジプトを訪れ、2007年には3,500人のエジプト人が日本を訪れた[4]。
結論、エジプトと日本は外交的・国民的にもとても良い親密な関係を築いている。
両国の比較
歴史
二国間の関係は、19世紀まで遡る。1861年に日本を発った文久遣欧使節は2月20日にスエズに到着し、更に翌1862年に池田筑後守率いる遣仏使節団はフランスに向かう途中の2月23日に、ムハンマド・アリー朝のエジプト太守、イスマーイール・パシャに謁見している[14]。明治維新後の日本にはオスマン帝国、エジプト、ガージャール朝ペルシア(現在のイラン)、エチオピア帝国、アルバニア、タイ王国、清国などと同様に治外法権や不平等条項(カピチュレーション)が欧米列強諸国との間に結ばれており、エジプトには1875年に利害関係各国たるイギリス、フランス、トルコ、イタリア、オーストリア、ドイツなど14か国が個別の領事裁判権をまとめた「(混合裁判所)」が創設されていたが、箕作麟祥は日本の領事裁判権を問題にする立場からこのエジプトの「混合裁判所」を検討し、1875年1月21日にギュスターヴ・エミール・ボアソナードに対してこの「混合裁判所」制度について質問している他、東海散士(柴四朗)は『埃及近世史』の中で領事裁判と混合裁判所について述べ、原敬は『埃及混合裁判』の中でこの「混合裁判所」がエジプト人よりも欧米人に対して圧倒的に有利な裁定を下していることについて言及している[15]。
1879年にイギリスのソールズベリ外務大臣は駐カイロ総領事に訓令を発し、(反イギリス的)な政策を採ろうとしていたエジプト副王イスマーイール・パシャを、名目上のエジプトの宗主国であったオスマン帝国に圧力をかけて解任させると、このイスマーイール・パシャ解任事件に憤ったアフマド・オラービー大佐は1881年2月に反旗を翻し、同年9月に(アブディーン宮殿)を包囲してイスマーイール・パシャの後任となったタウフィーク・パシャに憲法制定を認めさせ、翌1882年2月にオラービー大佐自らが陸相に就任し、民族主義的な(祖国党)内閣を樹立した(ウラービー革命)[16]。明治時代の日本の東海散士が著した政治小説『佳人之奇遇』にはこのウラービー革命を「一八八二年二月七日、(魔毛嫉佐徴)主相トナリ、亜刺飛陸軍大臣トナリ、是ニ全ク新内閣ヲ組織シ、同月六日、新憲法ヲ発布ス。是ヨリ五月ニ至ルマデ、国政真正ナル立憲政体トナリ、(国民党)モ亦漸ク平穏ニ帰セリ[17]」と述べて評価する記述が存在する。
ウラービー革命挫折後、1880年代から1910年代にかけてエジプトでは(ムスタファー・カーミル)の指導の下、ウラービーの(祖国党)(ワタニー)を復興し、エジプトの反英独立闘争が続けられたが、カーミルは1905年の日露戦争の日本勝利の際に、白人に対する有色人種の勝利であるとしてこの日本の勝利を評価している[18]。
他方、日本側ではクローマー総督がエジプトに於けるイギリスの政治的実践について述べたことを1908年に刊行した『現代エジプト』を、1911年に(大日本文明協会)より日本語訳刊行し、大隈重信は同書の日本語版に寄せた序文にて、イギリスのエジプト経営を日本の韓国保護経営の「経世的教訓」とすべきだと述べている[19]。
1921年4月には訪欧の途次にあった皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)がエジプトに立ち寄り、ピラミッドの見物やムハンマド・アリー朝のスルタン・フアード1世との非公式会談を行っている。
外交関係樹立後
両国の外交関係は、日本がエジプト王国の独立を承認した1922年に確立された[20]。外交関係樹立以来、第二次世界大戦中を除けば親しい関係が続いており、身分の高い外交官も何度か訪問している。主要なものに、日本の首相・村山富市による1995年のエジプト訪問や、ムバーラク大統領による1983年、1995年、1999年の数回にわたる日本訪問がある[4][21][22]。
1936年1月1日、日本はカイロに公使館を開設し[23][7]、翌1937年に初代公使に(横山正幸)が任命された[24][25]。しかし第二次世界大戦の勃発により、1941年12月8日付でエジプトは日本に国交断絶を通告した[26]。
戦後の1952年11月、日本とエジプトの両国は国交を回復させ[27]、1954年4月1日に在エジプト公使館は大使館に昇格させた[25]。
1998年から2002年にかけて、日本は35億ドル以上をエジプトに資金提供した[28]。2002年には、日本とエジプトの間の貿易額が1億ドルを超えた[29]。日本は救急車や橋、王家の谷のビジターセンターなどを提供している。
2015年1月17日、エジプトの首都カイロで開催された日エジプト経済合同委員会の席上において、安倍晋三内閣総理大臣は「ISILと闘う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します[30]」と公式に述べて、反ISIL(いわゆる「イスラム国」)およびエジプト支持の姿勢を明確に打ち出した[31]。
外交使節
在エジプト日本大使・公使
在日エジプト大使
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- (ムスタファー・ユセフ)
- (マハムード・サラーハッディーン・ハサン)(1972年 - 、信任状捧呈は3月1日[32])
- (モハメッド・サミー・サーベット)[33]
- (エルメニアウィ)(1989年以前[34][35] - 1993年[36])
- (メルバット・メハニ・タラウィ)(1993年 - 1997年、信任状捧呈は10月1日[37])
- (ナビル・ファハミ)(1997年 - 1999年、信任状捧呈は9月24日[38])
- (マフムード・カレム)(1999年 - 2003年、信任状捧呈は9月20日[39])
- (ヒシャーム・ムハンマド・ムスタファ・バドル)(2003年 - 2007年、信任状捧呈は11月11日[40])
- (ワリード・マハムード・アブデルナーセル)(2007年 - 2011年、信任状捧呈は10月1日[41])
- (ヒシャーム・エルズィメーティ)(2011年 - 2015年、信任状捧呈は12月5日[42])
- (イスマイル・カイラット)(2015年 - 2017年、信任状捧呈は5月7日[43])
- (臨時代理大使)(ハーテム・サラ・ハッサン・エルナッシャール)(2017年)
- アイマン・アリ・カーメル(2017年 - 2021年、信任状捧呈は12月11日[44])
- (臨時代理大使)(カリム・フェクリ・モハメド・モクタール)(2021年)
- (モハメド・アブバクル・サレー・ファッターフ)(2021年 - 、信任状捧呈は12月27日[45])
脚注
- ^ (2011年2月1日時点のアーカイブ)
- ^ http://www.eg.emb-japan.go.jp/e/bilateral/japan_egypt/recent_progress/2008/index.htm []
- ^ (2014年10月6日時点のアーカイブ)
- ^ a b c (2012年10月31日時点のアーカイブ)
- ^ (2013年12月18日時点のアーカイブ)
- ^ Human Exchange and Dialogue Program | Embassy of Japan in Egypt (英語)
- ^ a b c d エジプト基礎データ | 外務省
- ^ 平成27年国勢調査人口速報集計 結果の概要 - 2016年2月26日
- ^
- ^ 日本国憲法で明確に定められている。
- ^ a b (エジプト憲法)第2条で明確に定められている。
- ^ a b Gross domestic product 2015 | World Bank (英語)
- ^ SIPRI Fact Sheet, April 2016 2016年4月20日, at the Wayback Machine. (英語) - 2016年4月
- ^ 岡倉、北川(1993:66-67)
- ^ 岡倉、北川(1993:70-75)
- ^ 岡倉、北川(1993:77-81)
- ^ 東海散士の『佳人之奇遇』の記述については岡倉登志、北川勝彦「第3章 日本とエジプト」『日本 - アフリカ交流史――明治期から第二次世界大戦まで』 同文館、東京、1993年10月15日、初版発行、81頁より重引した。
- ^ 岡倉、北川(1993:88-89)
- ^ 岡倉、北川(1993:89-92)
- ^ (2009年5月17日時点のアーカイブ)
- ^ (2009年2月23日時点のアーカイブ)
- ^ (2009年6月14日時点のアーカイブ)
- ^ JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B13091756700、外務省報 第二十一巻(B-外・報21)(外務省外交史料館)
- ^ JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B13091794600、外務省報 第二十二巻(B-外・報22)(外務省外交史料館)
- ^ a b 在エジプト日本国大使館歴代大使一覧 | 在エジプト日本国大使館
- ^ JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B04011427300、本邦ニ於ケル学会関係雑件/国際法学会/時局問題特別委員会 第一巻(I-1-3-0-029)(外務省外交史料館)
- ^ 「〔備考〕エジプトとの間の外交関係の回復に関する書簡について」外務省
- ^ Gamal Essam El-Din (2004年11月18日). . Al Ahram. オリジナルの2013年8月27日時点におけるアーカイブ。
- ^ MEO Research Center (2002年6月5日). “EGYPTIAN-JAPANESE TRADE EXCHANGE HITS $1B.”. Asia Africa Intelligence Wire
- ^ 英語での公式発言は "I will pledge assistance of a total of about 200 million U.S. dollars for those countries contending with ISIL" である。Speech by Prime Minister Abe "The Best Way Is to Go in the Middle" | Ministry of Foreign Affairs of Japan (英語)を参照。
- ^ 安倍総理大臣の中東政策スピーチ(中庸が最善:活力に満ち安定した中東へ 新たなページめくる日本とエジプト) | 外務省 - 2015年1月18日
- ^ 外務省(情報文化局)『(外務省公表集)(昭和四十七年)』「六、儀典関係」「6 新任駐日エジプト・アラブ共和国大使の信任状捧呈について」
- ^ サーベット大使は、在任中の1985年6月に靖国神社を参拝している。水間政憲『いまこそ日本人が知っておくべき「領土問題」の真実: 国益を守る「国家の盾」』、p.77
- ^ List of Official Mourners Representing Foreign Countries and International Organizations at the Funeral Ceremony of Emperor Showa | Diplomatic Bluebook 1989 (英語)
- ^ Foreign Representatives, Heads of Missions and Accompanying Persons at the Ceremony of the Enthronement of the Emperor at the Seiden | Diplomatic Bluebook 1991 (英語)
- ^ ご引見(平成5年) - 宮内庁
- ^ 信任状捧呈式(平成5年) - 宮内庁
- ^ 信任状捧呈式(平成9年) - 宮内庁
- ^ 信任状捧呈式(平成11年) - 宮内庁
- ^ 新任駐日エジプト・アラブ共和国大使の信任状捧呈について - 2003年11月10日
- ^ 外務省: 新任駐日エジプト・アラブ国大使の信任状捧呈について - 2007年9月28日
- ^ 新任駐日エジプト・アラブ共和国大使の信任状捧呈 - 2011年12月5日
- ^ 新任駐日エジプト大使の信任状捧呈 | 外務省 - 2015年5月7日
- ^ 駐日エジプト大使の信任状捧呈 | 外務省 - 2017年12月11日
- ^ 駐日エジプト大使の信任状捧呈 | 外務省 - 2021年12月27日
参考文献
関連項目
- (ヘルワン日本庭園)
- 日本の国際関係
- (エジプトの国際関係)
外部リンク
- 在エジプト日本国大使館
- 駐日エジプト・アラブ共和国大使館 (英語)、同 (アラビア語)