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方 孝孺(ほう こうじゅ、至正17年(1357年) - 建文4年6月25日(1402年7月25日))は、明初の儒学者。字は希直、または希古。号は遜志。別称は方正学。台州寧海県の出身。
略歴
済寧府知府の方克勤の子。1376年(洪武9年)に宋濂に師事した。そのとき、才能を発揮したことから、知識人層から推挙されたが、洪武帝からは、重用されず、官は漢中府教授に止まっていた。1392年(洪武25年)、洪武帝の皇太孫の朱允炆(後の建文帝)の側近となる。建文帝からは重用され、翰林侍講学士に抜擢された。そして建文帝の信任のもとで国政改革に従事し、徳治による政治体制を目指したが、燕王朱棣(後の永楽帝)による靖難の変が起こる。靖難の変末期には、方孝孺は建文帝から軍の総司令官に任命されたが、大敗して方孝孺は捕らえられた。
即位して永楽帝となった朱棣は、姚広孝の進言もあって方孝孺を助命し、「詔天下、非先生草不可」(詔勅を書いていただきたい。先生でなければダメなのです)と、彼に即位の詔を書くよう、懇願した。これは、方孝孺が当時、儒学の大家として有名であったため、即位に関して簒奪として見ている儒学者の支持を得るためである。しかし、方孝孺は建文帝から重用された恩を忘れていなかったため、筆を投げ捨て、泣き乱しながら朱棣を罵り、「死即死耳、詔不可草(さあ殺せ!わしは詔勅など書かんぞ!)」と騒いだので、激怒した朱棣に磔刑に処され、死亡した。方孝孺は処刑の直前、「天降乱離兮孰知其由(天は乱離を降す、いずれか其の由を知らんや)」という辞世の詩を詠んでいる。方孝孺の宗族・親友は連座して処刑されたものが数百人に及んだ(『明史』方孝孺伝)。
民間の野史(『明史紀事本末』など)では、方孝孺は朱棣に捕らえられた時に、朱棣の目の前で「燕賊簒位(逆賊の燕王が皇帝位を乗っ取った)」と大書し、これが永楽帝の怒りに触れて、磔にされて一族800余名全てを目の前で処刑された後(妻子は既に自殺していた)、同じく建文帝派であった斉泰・黄子澄と共に処刑されたとする。さらに永楽帝は方孝孺の著作を抹消すべく、それらを全て焼き捨てたうえ、方孝孺の門下生の多くを処刑、もしくは流罪に処したという。この滅十族と称される虐殺の話は非常によく知られてはいるものの、『明史紀事本末』という史書は元々建文帝が海外に逃亡したという伝説をそのまま書いているような歴史小説に過ぎず、資料的な信憑性は極めて低い。
朝鮮の温陽方氏の記録によると、方孝孺の5世祖は元の時代に中国に定住し、金紫光禄大夫平章事を務めた温陽方氏の(方臣悌)である[1]。