略歴 6代当主・(新納忠明)の子として誕生。
明応3年(1494年)、都城の北郷数久と共に梅北(現:都城市梅北町)の(島津忠明)を攻撃。忠明を敗走させると梅北を手にいれる。この時の攻撃によって多くの神社・仏閣が焼失したと言われている。
忠武は飫肥を本拠とする豊州家・島津忠朝と対立していたが、島津宗家にも従おうとはしなかった。永正3年(1506年)、島津氏11代当主・島津忠昌が反乱を起こした大隅高山城の肝付兼久を攻撃したが、忠武が兼久に援軍を送ったため全軍撤退する事になる。こうして新納氏は忠武・忠勝の代に周囲の豪族と争いを繰り広げながら、次第に勢力を拡大していった。
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