斎藤 元助(さいとう もとすけ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。毛利氏家臣で長州藩士。父は(寅菊松斎)。
生涯
(寅菊松斎)の子として生まれ、毛利輝元、秀就の二代に仕えた。元助が輝元に仕官した際に、父・松斎の厳島の屋敷2間と抱分3間の公役が免除されている。
慶長2年(1597年)12月13日、「治右衛門尉」の百官名と「元」の偏諱を与えられて「寅菊元助」と名乗り、後に「斎藤元助」へと苗字を改めた。
寛永2年(1625年)8月13日、長門国大津郡俵山の内に200石を与えられる。
寛永4年(1627年)12月4日に嫡男・就実が死去したため、寛永9年(1632年)9月13日、元助の当知行200石の地について、嫡孫の孫市(後の就幸)が18歳になるまでは(斎藤就豊)(六左衛門尉)が代役を務め、就幸が18歳になった時に200石後を渡すように秀就に命じられた。また、就豊の扶持方切銭については、元助の隠居分を与える事とされた。
参考文献
- 『萩藩閥閲録』巻68「斎藤浪江」