略歴
享保15年(1730年)6月2日、宇都宮藩の第2代藩主・戸田忠余の次男として江戸屋敷で生まれる。父・忠余は養父の戸田忠真の六男・戸田忠久を養子に迎えていたが、その忠久が享保13年(1728年)8月8日に早世し、実兄(秋元喬求)も秋元家の養子となったため、戸田家の世子となる。延享元年(1744年)12月16日に従五位下・日向守に叙任される。延享3年(1746年)の父の死去により家督を継いだ。
忠盈は宇都宮の人心が荒廃していることを憂い、延享5年(1748年)に領内に「御教条之趣」を出した。これは領民が守るべき心を指示したものであり[1]、忠盈は人心の荒廃に対して厳罰で対処せず、心や孝行で領民の心を変えることを務めたのである[2]。
寛延2年(1749年)7月23日、肥前島原藩に移封となる[1]。しかし病弱なため、宝暦4年(1754年)7月25日、25歳の時に病気を理由に家督を養子(弟)の忠寛に譲って隠居し[1]、以後は江戸で余生を送った。天明元年(1781年)7月28日に死去。享年52。
系譜
父母
- 戸田忠余(父)
- 芳春院 - 側室(母)
側室
- 直
- 倉
子女
養女
- 戸田忠寛 - 忠余の四男
脚注
参考文献
- 坂本俊夫『宇都宮藩・高徳藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2011年9月。