来歴・人物
掛川西高では2年生の時、エースとして1957年夏の甲子園予選山静大会決勝に進み清水東高と対戦。後に大学の1年先輩となる漆畑勝久や早大に進む鈴木悳夫らに打ち崩され大敗、甲子園出場を逸する。
明治大学に進学。東京六大学野球リーグでは、同期の八木孝と投の二本柱を組み1961年春季リーグで優勝、ベストナイン(投手)にも選出される[1]。同年の全日本大学野球選手権大会に出場するが、準決勝でエース宮田征典を擁する日大に敗れた。リーグ通算43試合13勝10敗、防御率1.87、96奪三振。他の大学同期では一枝修平、辻佳紀、別部捷夫、松本雄作(4年中退、国鉄)がプロ入りしている。
卒業後は社会人野球の八幡製鐵に進み、都市対抗野球大会に10年連続出場。1968年の都市対抗では3勝を挙げ準決勝に進む。富士製鐵広畑の岡田光雄(松下電器から補強)と投げ合うが完封を喫した[2]。同大会の小野賞を獲得。同年8月にはアラスカ・ゴールドパナーズ[3]との日米親善野球試合に出場した。
引退後は新日本製鐵八幡監督となる。1974年の都市対抗では、エース萩野友康の好投もあって準優勝[2]。同年は第1回社会人野球日本選手権にも出場を果たす。