『彌次喜多 名君初上り』(やじきた めいくんはつのぼり)は、日本のオペレッタ時代劇映画である[1][2]。1940年(昭和13年)の日活京都撮影所製作、日活配給作品、日活とテイチクの一連の提携作品のうちの一作である[1][2]。監督は当時31歳のマキノ正博、のちの巨匠・マキノ雅弘の戦前のトーキー作品である[1][2]。
概要
1939年(昭和14年)末に急遽製作された『鴛鴦歌合戦』は、片岡千恵蔵の急病による休養のため、本作を撮影する予定で編成したスタッフ・キャストを流用した急造作品で、主演の片岡の出番は巧みに少ないが、本作は片岡の回復を待って、改めて製作されたものである[3]。ただ、本作は、前作のように、脚本作成から完成まで「10日間」、主演の片岡の撮影時間が「2時間」、といった尋常ではない「撮って出し」のスケジュールではなかったが、同年12月29日の仕事納めまでに完成をしなければならなかった[3]。
本作の「原作・脚本」としてクレジットされているのは山上伊太郎であるが、山上は原案のみで脚色したのは別人であり、それを知ってがっかりしたとマキノは後述している[3]。
現在では、当時わずかな日程ででっちあげられた『鴛鴦歌合戦』の方が名が知れ渡り、東京国立近代美術館フィルムセンターにも所蔵され、DVDも国際的に販売されているが、本作は同センターに所蔵されておらず、したがって上映用プリント等の現存は確認されていない[4]。現時点での知名度も低い。
スタッフ・作品データ
キャスト
クレジット順である[2]。
- 片岡千恵蔵 - 左官金太/松原伯耆守(二役)
- 澤村國太郎 - 左官半次
- 塩まさる(テイチク) - 弥次郎兵衛
- ディック・ミネ(テイチク) - 喜多八
- 美ち奴(テイチク) - 矢場の女・お辰
- 服部富子(テイチク) - 大喜の娘・お市
- 香川良介 - 御側用人・柳川嘉兵衛
- 志村喬 - 国家老・圓山久太夫
- 遠山満 - 家老・間瀬大膳
- 団徳麿 - 圓山一味・蒲原幸兵衛
- 藤川三之祐 - 和尚
- 大崎史郎 - 圓山一味・西九郎兵衛
- 若松文男 - 古島礼三郎
- 石川秀道 - 圓山一味・会沢八十右衛門
- (薮内龍三郎) - 圓山一味・熊崎国蔵
- (楠栄三郎) - 案内伝五左衛門
- 福井松之助 - 江室龍平
- (大倉多一郎) - 大喜の亭主
- 志茂山剛 - 唄う矢場の客
- 小林三夫 - 同(唄う矢場の客)
- (武林大八郎) - 袴田平蔵
- (瀬戸一司) - 圓山一味・寺久保伝蔵
- (阪東薪太郎) - 唄う矢場の客
- (富士咲実) - 同(唄う矢場の客)
- (近松龍太郎) - 同(唄う矢場の客)
- (石丸三平) - 同(唄う矢場の客)
- (橘昇子) - 唄う矢場の女
- (巴弘子) - 同(唄う矢場の女)
- (藤木小枝子) - 同(唄う矢場の女)
- (末広華子) - 同(唄う矢場の女)
- (槇木くみ子) - 同(唄う矢場の女)
- (吉田礼子) - 同(唄う矢場の女)
- 市川春代 - 久太夫の娘・小雪
脚注
- ^ a b c d 弥次喜多 名君初上り、日本映画データベース、2012年11月26日閲覧。
- ^ a b c d e 弥次喜多 名君初上り、日活データベース、2012年11月26日閲覧。
- ^ a b c マキノ[1977]、p.446-450. 同箇所では本作の脚色者の正体(山上伊太郎)は明かされていない。
- ^ 東京国立近代美術館フィルムセンター「所蔵映画フィルム検索システム」での検索結果の記述を参照。2012年11月26日閲覧。
参考文献
関連事項
外部リンク
- 弥次喜多 名君初上り - 日本映画情報システム (文化庁)
- 弥次喜多 名君初上り - 日本映画データベース
- 弥次喜多 名君初上り - KINENOTE
- 弥次喜多 名君初上り - 日活データベース