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式明親王

式明親王
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 延喜7年(907年
薨去 康保3年12月17日967年1月30日
官位 三品中務卿
父母 父:醍醐天皇、母:源和子
兄弟 (勧子内親王)、宣子内親王恭子内親王克明親王保明親王慶子内親王代明親王勤子内親王婉子内親王、(都子内親王)、重明親王常明親王、(修子内親王)、敏子内親王式明親王雅子内親王有明親王、(普子内親王)、(時明親王)、(長明親王)、源高明兼明親王源兼子靖子内親王、源厳子、源自明韶子内親王源允明康子内親王英子内親王斉子内親王朱雀天皇章明親王村上天皇源為明盛明親王
藤原玄上
(源親頼)、(源親繁)
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式明親王(のりあきらしんのう)は、醍醐天皇の第六皇子。母は源和子官位三品中務卿

経歴

延喜11年(911年)同母弟・有明らとともに親王宣下を受ける。延喜21年(921年)兄の重明常明や弟の有明とともに清涼殿において元服する。

のち、大宰帥中務卿を歴任し、村上朝天徳3年(959年)には帯剣を許されている。

応和元年(961年)次男の(親繁王)が前武蔵権守源満仲の邸宅に強盗に押し入る。満仲の訴えを受けた検非違使から事の次第を伝えられ親繁の引き渡しを求められるが、式明親王は「親繁は邸内にいるが重い痢病を患って起居に堪えない。回復すれば引き渡す」旨を上申する。しかし、宣旨により官人が派遣されて式明親王は家宅捜査を受けたが、親繁を始め一味は逃亡済であった。捜索の手は他の皇族にまで及び、(成子内親王)の邸宅にて一味の一人である紀近輔がようやく捕らえられたが、親繁王の行方は知れなかった。結局、式明親王は親繁王を引き渡さず、悪事をいい加減に取り扱ったとして罰せられた[1]

康保3年(966年)12月17日(薨去)。享年60。最終官位三品中務卿

官歴

注記のないものは『日本紀略』による。

系譜

  • 妻:藤原玄上の娘
  • 生母不詳の子女
    • 長男:源親頼
    • 次男:(源親繁)[1]

脚注

  1. ^ a b 『扶桑略記』天徳5年5月10日条。『古事談』4,勇士
  2. ^ a b c 『九暦』
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