» www.Giftbox.Az - Bir birindən gözəl hədiyyə satışı
ウィキペディアランダム
毎日カテゴリ
共有: WhatsappFacebookTwitterVK

平田宗次

平田 宗次(ひらた むねつぐ)は薩摩国島津氏の家臣で、戦国時代から江戸時代前期にかけて同名の(薩摩平田氏)の一族が7名存在した。

史料に残された事績が全員とも少量であるため、ここにまとめて列記する。

該当者

平田 宗次(ひらた むねつぐ、? - 永禄元年3月19日1558年4月7日)は、戦国時代薩摩国武将。父は平田氏嫡流の(平田貞宗)。通称は又十郎。養嗣子は(平田勝宗)。

平田氏5代・貞宗の三男として誕生したが、長男の(昌宗)が次男(宗貞)の無道を憎んだため、宗次は次男とされた。永禄元年(1558年)薩摩国曽於郡恒吉郷の宮ヶ原にて戦死した。

名跡は嫡流6代となった兄・昌宗の、その婿養子である光宗の次男・勝宗が継いだ。


平田 宗次(ひらた むねつぐ、生没年不詳)は、戦国時代薩摩国武将。父は平田氏庶流の(平田宗徳)。通称は源太、新助。

平田宗徳の次男として誕生。祖父の(宗仍)は平田氏3代(氏宗)の次男・(宗勝)の養子。

日向国福島(現・宮崎県串間市)の市木にて戦死した。法名は「潔潭正清」。


平田 宗次(ひらた むねつぐ、生没年不詳)は、安土桃山時代薩摩国武将。父は平田氏庶流の(平田宗応)、母は(吉利久金)の娘。通称は平次郎。

平田宗応の長男として誕生。祖父は(平田宗徳)で、日向国福島市木にて戦死した平田新助宗次は叔父に当たる。

この平次郎宗次は文禄・慶長の役にて戦死した。享年23。


 
『賤のおだまき』著者不詳 (市村丁四郎1885) 挿絵。吉田大蔵、平田三五郎を訪ねるの図

平田 宗次(ひらた むねつぐ、天正13年(1585年) - 慶長4年11月28日1600年1月14日[1])は、安土桃山時代薩摩国武将。父は不明。通称は三五郎。

庄内の乱に同僚の(吉田大蔵清盛)(清家とも:享年28)と共に参戦したが、大隅国財部での合戦で清盛が討ち死にする。清盛の家臣である(佐藤武住)がその亡骸を肩に掛けて引き退いて来ると、宗次は亡骸に抱き付いて涙を流し、今はこれまでと敵中に駆け入り討ち死にを遂げた。享年15。

平田三五郎の吉田大蔵に対する忠義の精神は、後に武士間の衆道を描いた『賤のおだまき』のモデルとなり、二才衆(十代後半の若者組)の間で愛読されたと言われる[2]。三五郎は美少年であったらしく「容色無双」と書かれている[1]。実際、新納忠元は若武者の死を聞き、「彼は無双の美童なり」として哀悼の和歌「きのふ迄誰か手枕にみだれけん よもきが元にかかる黒かみ」を詠んでいるが、それが三五郎のことと伝わる。『賎のおだまき』は地元鹿児島では江戸時代から明治時代まで広く読まれ、明治以降は、森鷗外ら有名作家が作品内で触れたことや1884年に自由党系小新聞『自由燈』に連載されたことなどにより全国的に知られるようになった[2][3]曽於市財部町北詰に平田三五郎の墓があるが、戦時中、墓の石片が出征兵のお守りとされたため、墓の正面の文字はほとんど削られて読めない[2]。向かって右側に「明治三十八年二月十八日改正 平田□□(文字不明)郎 平田宗市 平田次右エ門 見事舞人 黒木伝次郎」、左側に「宮内市之助 宮内七助」とある[2]。鹿児島市内の醫師神社に平田三五郎・吉田大蔵の辞世の句とされるものがあったが、焼失した。


平田 宗次(ひらた むねつぐ、? - 慶長5年(1600年))は、安土桃山時代薩摩国武将。父は平田氏庶流の(平田宗清)。通称は万兵衛。

平田宗清の次男として誕生。父の宗清は平田氏庶流の滝聞氏を号していたが、嫡流7代である平田光宗に許され平田に復姓した。

宗次は関ヶ原の戦いに参戦し戦死した(具体的な日時は不明)。


平田 宗次(ひらた むねつぐ、天正14年(1586年) - 慶長7年8月17日1602年10月2日))は、安土桃山時代から江戸時代にかけての薩摩国武将。父は平田氏嫡流の平田増宗、母はかつけ(上井覚兼の娘)。通称は新次郎。

嫡流9代である平田増宗の長男として誕生。慶長7年(1602年)島津家久(忠恒)が日向国野尻(現・宮崎県小林市野尻町)にて狩りを行った際に同行し、庄内の乱の首謀者であった伊集院忠真共々射殺された。享年17。

宗次を射殺した日向国穆佐郷(現・宮崎県宮崎市高岡町)郷士の(押川則義)は、忠真と宗次が馬を取り換えていたため誤射したと述べ、則義は責任を取り切腹した。


平田 宗次(ひらた むねつぐ、文禄元年(1593年) - 慶長17年4月26日1612年5月26日)は、江戸時代薩摩国武将。父は平田氏庶流の(平田宗親)。通称は左馬頭。

平田宗親の長男として誕生。父の宗親が平田増宗の実弟であるため、増宗長男の新次郎宗次は従兄にあたる。

慶長17年(1612年)、島津家久(忠恒)により誅殺された増宗に連座して、父や弟ら共々刑に処された。享年20。

脚注・出典

[脚注の使い方]
  1. ^ a b 桐野作人『さつま人国誌 戦国・近世編』(南日本新聞社、2011年) 68頁 -71頁
  2. ^ a b c d 平田三五郎と宮内式部の墓曽於市
  3. ^ 日本近代文学における男性同性愛表象黒岩裕市、一橋大学、 2008

参考文献

  • 本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)

外部リンク

  • 『賎のおだまき』考 伊牟田經久、志學館大学研究紀要38号、2017-01-30
  • ドリアングレーと平田三五郎 『我観南国』山本実彦 著 (東京堂書店, 1916)
ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム。