平和橋(へいわばし)は、長野県千曲市の千曲川に架かる長野県道340号姨捨停車場線の橋長580.8 m(メートル)の桁橋。
平和橋 | |
---|---|
基本情報 | |
国 | 日本 |
所在地 | 長野県千曲市大字八幡 - 大字中 |
交差物件 | 千曲川 |
用途 | 道路橋 |
路線名 | 長野県道340号姨捨停車場線 |
管理者 | 長野県千曲建設事務所 |
施工者 | 川崎重工業・櫻田機械工業・日本車輌製造・松尾橋梁・(宮地鐵工所) |
着工 | 1973年(昭和48年) |
開通 | 1985年(昭和60年)7月 |
座標 | 北緯36度30分58.3秒 東経138度6分38.7秒 / 北緯36.516194度 東経138.110750度 |
構造諸元 | |
形式 | 桁橋 |
材料 | 鋼 |
全長 | 580.800 m |
幅 | 12.800 m |
最大支間長 | 51.300 m |
関連項目 | |
橋の一覧 - (各国の橋) - (橋の形式) |
概要
付近の川幅の広い千曲川を渡っている。連続桁を採用し、走行性、騒音・振動の減少を図っている[1]。
歴史
かつてこの地には現在の平和橋の100 mほど下流側に左岸の武水別神社にゆかりのある向八幡の渡しがあった。1742年(寛永2年)に全長7尺3寸(約13.5 m)、幅約1.71 mの渡し船を新造した記録があり、以後1756年(宝暦6年)・1772年(明和9年)・1789年(寛政元年)・1831年(天保2年)・1843年(天保14年)に造船修理などの記録が残されている[3]。
1879年(明治12年)には既に舟橋が架橋されていた。これは橋長54 m、幅員7 mで7艘の舟を繋いでいた[3]。
千曲川の低水敷部に木造の潜水橋が1925年(大正14年)に架橋された[4][5]。しかし、架橋技術が未熟なため頻繁に流失を繰り返した[1]。
1951年(昭和26年)6月に自動車の交通はできなかったが橋長166.5 m、幅員1.8 mの[6]それまでより本格的な木橋が更級郡八幡村、桑原村、更級村、埴科郡杭瀬下村、埴生町、五加村、戸倉町の7町村からなる道路組合により架橋された。この橋はサンフランシスコ平和条約にちなみ平和橋と命名された。これも低水敷に架かる潜水橋であり、主桁が鉄線で連絡されていたため洪水時には橋が中央部で2つに分かれ両岸で繋留されていた。かつては水位上昇前に水防団により床版を撤去していたが、危険を伴うことから1965年(昭和40年)頃を境に中止された。この木橋も流失と架橋を繰り返したが最終的に新橋開通を控えた1985年(昭和60年)7月に流失した[1]。
平和橋の完成まで更埴市[注釈 4]には、東西に架かる自動車交通可能な橋が本橋の下流にある千曲橋のみで交通流の増大が著しく、ラッシュ時の交通渋滞のため機能不全を起こしていたことから永久橋架設が決まり、1973年(昭和48年)の計画から12年の歳月を経て1985年(昭和60年)7月に新橋が開通した[1]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e “千曲川・橋梁の今昔 その6 平和橋” (PDF). 長野県千曲建設事務所総務課. 2020年10月31日閲覧。
- ^ “橋梁年鑑 昭和62年版” (PDF). pp. 42, 176, 177. 2020年10月31日閲覧。
- ^ a b 長野県教育委員会『歴史の道路調査書XXXI 千曲川』(初版)長野県文化財保護協会、1992年6月20日、74, 75頁。
- ^ “平和橋1925”. 土木学会附属土木図書館. 橋梁史年表. 土木学会. 2020年10月31日閲覧。
- ^ 土木学会中部支部 編『国造りの歴史』名古屋大学出版会、1988年2月25日、263頁。ISBN (978-4-930689-84-9)。
- ^ “平和橋1952”. 土木学会附属土木図書館. 橋梁史年表. 土木学会. 2020年10月31日閲覧。
外部リンク
- 長野県千曲建設事務所 - 橋梁管理者
- 空から眺める千曲川・犀川 千曲川上流 - 国土交通省北陸地方整備局千曲川河川事務所
- 33 冠着橋
- 35 平和橋