歴史
江戸時代前期、織田信久の開基である。信久は小幡藩の藩主である。小幡藩織田家は、これまで当地の古刹で小幡氏の菩提寺だった宝積寺を菩提寺としていたが、信久の代に当寺を建てて菩提寺を変更、織田信雄以降の父祖の墓を移葬した[1]。
移葬の理由として、宝積寺の晋山式(住職就任式)の際、藩主たる織田家の席次が下位[2]であることに不満を持ち、菩提寺を変更したという話が伝わっている[3]。別の説では、宝積寺は曹洞宗の寺であったが、織田家の宗旨は臨済宗[4]だったことから、岐阜の崇福寺にあやかって、同名の寺を創建したという。
文化財
交通アクセス
- 富岡ICより車8分。
脚注
- ^ a b 群馬県高等学校教育研究会歴史部会 編『群馬県の歴史散歩(歴史散歩10)』山川出版社、2005年、93p
- ^ 一番:小幡氏(旧領主)、二番:小柏氏(大檀越)、三番:織田氏(藩主)
- ^ 甘楽町総務課 編、山口太一 画『まんが甘楽町の歴史』甘楽町総務課、1995年、92-93p
- ^ 織田信長が岐阜に建てた菩提寺「崇福寺」、信長が安土に建てた「摠見寺」、豊臣秀吉が信長の菩提を弔うために建てた「総見院」、信雄が父信長の菩提を弔うために建てた「總見寺」は、いずれも臨済宗である。
- ^ 小幡山崇福寺の下馬の碑甘楽町
- ^ 崇福寺の石造聖観音坐像甘楽町
- ^ 織田氏の位牌甘楽町
- ^ 織田氏七代の墓甘楽町
参考文献
- 甘楽町総務課 編、山口太一 画『まんが甘楽町の歴史』甘楽町総務課、1995年
- 群馬県高等学校教育研究会歴史部会 編『群馬県の歴史散歩(歴史散歩10)』山川出版社、2005年