生涯
祖父は宮之城島津家の祖である島津忠長で、父の立頼はその三男であるが、大隅国の国人で土岐氏の末裔である敷根氏を継いだ。久頼は立頼の次男として生まれたが、寛永10年(1633年)に家督を継いでいた兄の(頼国)が嗣子の無いまま20歳で早世したため、久頼が跡を継ぎ、敷根蔵人頼喜を名乗った。
寛永16年(1639年)6月28日に主君島津家久の八女を娶る。寛永20年(1643年)に後光明天皇が即位した際は、2代藩主光久の名代として上洛することとなり、この際に島津の姓と「久」の偏諱を授かり、以後は島津筑前守久頼と名乗った。
また、正保3年(1646年)に光久より、以後代々島津姓を名乗ることが許され(ただし嫡流のみで、次男の家は土岐姓)、また敷根氏の祖先の氏である源氏(清和源氏)から、島津家が氏とする藤原氏を名乗ることも許可された。慶安2年(1649年)、光久の家老職に抜擢され、御役料として1000石を賜った。
参考文献
- 『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)
- 稲葉行雄 『「さつま」歴史人名集』(高城書房出版)(ISBN 4-924752-28-2)