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岡部 長寛(おかべ ながひろ)は、江戸時代後期の大名。和泉国岸和田藩の第12代藩主。官位は正五位(筑前守)。岸和田藩岡部家13代。
生涯
第9代藩主・岡部長慎の次男として岸和田城にて誕生。幼名は第二郎。母は側室。10代藩主・長和の弟で、11代藩主・長発の兄に当たる。
長兄・長和がいたため、本家の家督を継ぐことはできず、天保2年(1831年)12月27日に分家の旗本・(岡部長貞)の養嗣子となる。後に小姓となる。天保9年12月16日、従五位下・筑前守に叙任する。しかし、安政2年(1855年)2月25日、本家の家督を継いでいた弟の長発が早世し、長発の子である長職も幼少だったため、本家の家督を継ぐこととなった。
幕末の動乱の中で、藩政においては軍政改革や藩校・(講習館)の増築を行なって修武館と改名するなどしている。当初佐幕派として行動していたが、戊辰戦争が起こると新政府側に与した。慶応4年(1868年)4月7日、新政府に献金を申し出る。同年6月、老臣(岡部正路)の処罰をめぐる藩内の対立により、新政府が調査に乗り出す。同年9月5日、家中の取締りを問題とされて、新政府から差控を命じられる。同年9月20日、隠居を願い出る。明治元年12月28日(1869年)、隠居を許可されて、養子の長職に家督を譲った。