略歴
通称は八郎左衛門、字は子修、名は高補
山鹿流の祖である山鹿素行の宗家(直系子孫ただし女系を挟む)津軽山鹿氏(惣祖・高恒)の末裔で、遠祖(山鹿素行)から6代目の子孫。
1808年(文化5年)、津軽藩主・津軽寧親に拝謁し家督相続。 1828年(文政11年)、諸国遍歴の旅に出る。唐津・大分の藩士に家伝の山鹿流を教える。大分では豪商・後藤碩田の家を根城にしていたとされる。
変名で京都に在住時、京都守護在番中にあった綾部藩主の九鬼隆都に知られ、教えを授けるようになり、「田原藤兵衛」と名乗る。 これをきっかけに隆都は山鹿流に傾倒、綾部藩大番与力の安藤直章は、素水と相前後する山鹿流兵学の双璧であった幕臣の窪田清音と並び学んでいる[2]。
1837年(天保8年)には、山鹿流が定着していた大垣藩の小原鉄心に伝授、1843年(天保14年)に綾部藩に招かれ、1845年(弘化2年)、剃髪し素水と号し、素行の『武教全書』を復刊[3]。 1851年(嘉永4年)には、長州藩の吉田松陰[注釈 1]、肥後藩の宮部鼎蔵が入門する[5]。
1855年(安政2年)に幕府が講武所を開設、九鬼隆都が総裁、窪田清音が頭取兼兵学師範役に就任する。 幕府の御用学として山鹿流が採用されたのは、素水、九鬼、窪田の関係によるものとされる[6][8]。
家系
著書
- 「嘉永二年酉十一月 阿部伊勢守殿江 山鹿素水上書之写」、[書写者不明]。 - 老中の阿部正弘に宛てた手紙の写し
- 『海備』。 NCID BB21701081。 - 全策7巻 (存2巻) [43] 丁
- 『相州浦賀湊縮図』山鹿高補、1847年。 NCID BA69241948。 - 地図1舗
- 『海備芻言』胡老山人 [写]、1849年。 NCID BA70138720。 - [19]丁 別題『海備全策』7巻[注釈 2](4冊 (合2冊) )
- 『練兵実備』金花堂須原屋佐助、1850年。 NCID BB06553331。 - 全3冊
- 『練兵説畧』積徳堂、1851年。 NCID BB17938870。 - 35丁
- “吉田松陰関係資料 > 山鹿素水詩文”. 山口県立山口図書館・山口県文書館 (1851年). 2018年11月9日閲覧。
共著
参考文献
- 住田正一 編「海備全策 (山鹿素水)」 1巻、在原宣猷 (写)、海防史料刊行会、東京〈日本海防史料叢書〉、1933年、169-314 (コマ番号 95-167/172)頁2018年11月9日閲覧。 。
脚注
注釈
出典
- ^ a b 石岡 1981, pp. 217–220.
- ^ 第6章 幕末兵法武道家の生涯 §2 山鹿素水の業績[1]
- ^ 素行 1849.
- ^ “吉田松陰関係資料 > 山鹿素水詩文”. 山口県立山口図書館・山口県文書館 (1851年). 2018年11月9日閲覧。
- ^ 第6章 幕末兵法武道家の生涯 §2 山鹿素水の業績[1]
- ^ 石岡 1980, p. 219.
- ^ 風間 1981, pp. 155–182.
- ^ 第3章 山鹿素行の武士道論[7]
- ^ a b 日本海防史料叢書 1933.
- ^ 全国版幕末維新人物事典, p. 326.
- ^ 松浦清「心得ぬ事なり。人を出して即往きたるに、果たして大石の輩」「弘前候ばかり之を知れり」(松浦清山『甲子夜話』)。
- ^ 『津軽家文書』より「兵法大事目録」(国文学研究資料館・弘前市立図書館・早稲田大学など)