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山浦 光則(やまうら みつのり)は、江戸時代前期の米沢藩士。日本史上唯一の「キリシタン公卿の殉教者」とされるが、光則は親が公家だが自身は三位に達しておらず、かつ武士身分なので、「公家出身者の殉教者」が正しい。
生涯
権中納言・猪熊季光[1]の次男として誕生。伯父には猪熊事件の猪熊教利が、伯母にはおよつ御寮人事件の四辻与津子がいる。
キリシタンであったため、寛永11年(1635年)、迫害を避けて妻子と共に京都から逃れ、従兄で米沢藩2代藩主・上杉定勝を頼って米沢へ身を寄せた。これは父方の血縁関係があったことに加え、米沢藩におけるキリシタン弾圧が他藩と比べて緩いものだったことが起因といわれる。定勝の計らいにより、上杉家臣・山浦景国の跡を受けて上杉氏一門の山浦上杉家を継ぎ、身柄を安堵された。しかし定勝の死後、江戸幕府の厳命を受けた3代藩主・上杉綱勝によって、承応2年(1654年)12月に伯母・四辻氏が葬られている米沢(極楽寺)境内で斬首された。遺体は四辻氏の墓の隣に葬られたといわれる。
光則の妻子は免罪され、息子2人は僧[2]となり、娘3人[3]のうち次女は綱勝生母・(生善院)[4]の侍女を経て侍組(平林正信)[5]に、三女は米沢長命寺(浄土真宗)住職にそれぞれ嫁いだ。
現在、四辻氏の墓とされている上杉家側室の墓の側に、光則の供養塔が建立されている。
系譜
- 父:猪熊季光
- 母:不詳
- 妻:不詳
- 男子:山浦能範法印
- 男子
- 女子
- 次女:平林正信室
- 三女