人物・経歴
略歴
東京都千代田区平河町出身。出生時の戸籍名を興亜(おきつぐ)といった。名付け親は父と親交のあった川島浪速(清朝第10代粛親王善耆の第十四王女愛新覺羅顯㺭(日本名=川島芳子)の養父)
1944年11月、川島浪速の伝手で家族ともども長野県松本市郊外の浅間温泉に疎開した。
1954年10月22日、高校3年のとき、父の反対を押し切り、名前が時代にそぐわないとして、自ら長野家庭裁判所松本支部に申立をして戸籍名を二郎に変更した。
長野県松本深志高等学校を経て、1960年、中央大法学部卒。
1963年司法試験合格、1966年司法修習を終了し、東京で弁護士登録(第二東京弁護士会)。
1984年12月26日、長野県弁護士会に登録替え。長野県松本市に山根二郎法律事務所を開設した。
主な取扱事件
1966年に第二東京弁護士会に弁護士登録した後、1968年金嬉老事件の主任弁護人となり、裁判の場に初めて在日朝鮮人問題を提起する。
1969年日本における若者最後の反乱というべき東京大学安田講堂事件の主任弁護人となり、三百数十名の被告人(学生)の(統一公判)を要求、分割公判を強行する東京地裁と全面対決した裁判闘争を展開。裁判所より発言禁止等の制裁を受け5日間拘留されたほか、 他の弁護士から審判妨害罪で告発されることもあった[1]が、弁護を継続し学生の大半の執行猶予付き判決を勝ち取る。この事件はそれまで閉鎖的であった日本の裁判そのものを社会的に開放した先駆けとなる。
1969年昭和天皇パチンコ狙撃事件の犯人奥崎謙三(ドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』の主人公)の弁護人を担当。事件の社会的タブーの度合いから弁護人のなり手がなく当時金嬉老事件や東大安田講堂事件で連日新聞の一面を飾りテレビにも出演していた山根(テレビのワイドショー等に弁護士が出演するようになったのは山根が初めてでそれまで閉鎖的だった裁判や弁護士という職業にスポットライトが当たる先駆けとなった)に白羽の矢が立った。なお、この事件がきっかけで皇居内のバルコニーに防弾ガラスが設置されることとなった。
1984年長野県弁護士会に登録変更後、1988年積雪・寒冷地の住民を長年苦しめてきたスパイクタイヤによる道路粉塵公害を解決するため、長野県弁護士会公害対策委員長時に、タイヤメーカー七社を相手取って公害調停を申立て、スパイクタイヤの全面製造・販売中止の調停を成立させる。
1991年資生堂・花王を相手取った民事訴訟の代理人となり、裁判等を通じて化粧品メーカーの独禁法違反問題を提起。
1993年アメリカ合衆国のメジャー化粧品メーカーのマックスファクターを独占禁止法違反で提訴した事件の主任弁護人となり勝訴。同事件は独禁法事件の代表的な判例として法学の教科書に掲載されるなどその後の独禁法訴訟の指針となった。
1996年カルト教団の宗教施設建設計画阻止のため地域住民を指導し、代理人として建設差止の調停を申立てるなどして撃退に成功。
1995年オウム事件を契機に執筆を開始、膨大な資料を徹底的に探索・検証し、根元的な思索と精神の激闘が著書「仏教解体」となる。
2001年元長野県知事田中康夫の脱ダム宣言に先立ち長野県松本市の薄川上流に建設予定であった(大仏ダム)の建設反対を訴え、同田中康夫知事が建設中止を決断した。実際に建設予定のダム建設が中止された全国的にもまれな先例となった。
2018年ネオニコチノイド系殺虫剤のヘリコプター(空中散布)の中止を求め長野県松本市を提訴。[2][3]
2019年4月元号制定は違憲であるとジャーナリストの矢崎泰久らと国を提訴。[4]
その他、弁護士として多数の社会的問題、環境・公害問題に取り組む。
著作等
仏教解体(仏教カルト研究所 、2000/4/1)
山根二郎作成の文書が公式ホームページである山根二郎.com https://yamanejiro.com にて公開されている。