略歴
茨城県古河市出身。1996年(平成8年)秋、体操競技をテレビで見たことをきっかけに小学2年生(7歳)で体操を始め、埼玉県さいたま市のサトエスポーツクラブ[1]まで母の車で通い[2]、元中華人民共和国体操代表の呉傑の指導を受ける。2001年3月6日放送された、TBSテレビの(『学校へ行こう!』のコーナー「未成年の主張」)にて、(古河市立古河第一小学校)屋上から出演[3]し当時の大賀茂校長を激励した[4]。埼玉栄高校3年時に高校総体個人総合優勝を果たす。高校の上級生には坂本功貴がおり、また在学中に内村航平(東洋高校)と知り合い親交を深める。 日本体育大学体育学部体育学科に進学し、畠田好章の指導を受ける。また以後、内村とチームメイトとなる。
2009年(平成21年)にJAPAN CUP2009の日本代表に選抜されナショナルチーム入り。翌年の2010年世界体操競技選手権(ロッテルダム)が世界選手権初出場となり、つり輪で4位と健闘した。しかし個人総合では、予選のゆかでの大きなミスが響き決勝進出できなかった。
日体大卒業後の2011年(平成23年)4月、内村とともにコナミスポーツ&ライフ(現・コナミスポーツ)に入社。2011年世界体操競技選手権(東京)では、団体での銀メダルに貢献した他、個人総合とつり輪で銅メダルを獲得した。
2012年ロンドンオリンピックでは、団体総合決勝・跳馬で着地時に転倒し、左足甲剥離骨折を発症して戦線離脱。個人総合を棄権した。彩の国功労賞を受賞。
2015年のアジア体操競技選手権において、平行棒で新技が決まり「ヤマムロ」と認定された[5]。
2016年リオデジャネイロオリンピックでは、(団体総合)の決勝であん馬とつり輪で演技し、金メダルを獲得[6]。11月、紫綬褒章を受章[7]。彩の国スポーツ功労賞受賞[8]。
2022年3月31日にコナミスポーツを退社し、MIZUTORI SPORTS CLUBに所属を変更した[9]。
特徴
小柄だが筋力に定評があり、力技と跳躍技を得意としている。最大の得意種目はつり輪で、日体大の卒業論文はつり輪の「後方伸身2回宙返り2回ひねり下り」の研究だった[10]。
脚注
- ^ “スタッフ紹介”. サトエスポーツクラブ. 2016年8月7日閲覧。
- ^ 1999年9月27日 朝日新聞(茨城)「(ぴーぷる)山室光史君 全日本ジュニア体操で準優勝」
- ^ この放送から「小学生の主張」が初めて放送された。
- ^ 播磨谷拓巳 (2016年8月7日). “【リオ五輪】「学校へ行こう」で校長に誓った五輪 少年は夢を叶え、金を目指す”. BuzzFeed2016年8月7日閲覧。
- ^ “【体操】「シライ3」をFIG技術委が称賛 ヤマムロ、ツカハラ3も認定” (2016年2月15日). 2021年4月4日閲覧。
- ^ “体操男子日本が3大会ぶり王座奪回!内村悲願の団体金メダル” (2016年8月9日). 2016年8月16日閲覧。
- ^ “”. 朝日新聞デジタル (2016年11月2日). 2016年11月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月12日閲覧。
- ^ “内村、桐生ら8人を埼玉県が表彰”. スポニチアネックス. (2016年11月30日)2016年11月30日閲覧。
- ^ “体操・リオ五輪金メダルの山室光史、35歳で迎えるパリ五輪まで現役続行「まだ戦える」”. スポーツ報知. 2022年5月17日閲覧。
- ^ 2011年2月19日 朝日新聞「(be report)進化続ける体操の大技 「ウルトラC」は遠い昔 」