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生涯
細川氏嫡流・京兆家の当主、管領細川勝元の妻は宗全の娘(養女とも)であり、継嗣の無かった勝元は、妻の実家であり、友好関係にあった山名氏より養子として豊久をもらい受けた。しかし文正元年(1466年)、勝元に実子の政元が生まれると廃嫡され、仏門に押し込まれた。この一件は宗全と勝元の対立を生み、応仁の乱勃発の一因になったと言われている。
文明11年(1479年)に発生した毛利次郎の乱で守護方の一員として鎮圧にあたった「山名七郎」を豊久に比定する説がある[1]。
豊久はその後鄧林宗棟(とうりんそうとう)と改名、大徳寺68世、妙心寺17世となり大永2年(1522年)に70歳で没した。亡くなる前年の永正18年(1521年)に狩野元信が描いた肖像が現存する(龍安寺蔵)。
脚注
外部リンク
- 狩野元信筆「鄧林宗棟像」 - 住友財団
- 住友財団助成 修復文化財図録II