山代温泉(やましろおんせん)は、石川県加賀市(旧国加賀国)にある温泉。
山代温泉 | |
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温泉情報 | |
所在地 | 石川県加賀市 |
交通 | 空路 - 小松空港 鉄道 - JR西日本北陸本線:加賀温泉駅 車 - 北陸自動車道:加賀IC 片山津IC |
泉質 | 硫酸塩泉 |
泉温(摂氏) | 65 °C |
湧出量 | 1,450 L/分 |
pH | 8.1 |
液性の分類 | 弱アルカリ性 |
浸透圧の分類 | 低張性 |
宿泊施設数 | 20 |
総収容人員数 | 6214 人/日 |
年間浴客数 | 48万人 |
統計年 | 2022年 |
外部リンク | 山代温泉観光協会 |
加賀温泉郷の一角を占め、粟津、山中、片山津と並ぶ県下有数の温泉である。
また、加賀市の町名となっている。
泉質
- ナトリウム・カルシウム-硫酸塩泉・塩化物泉
- カルシウム・ナトリウム-硫酸塩泉
- ほか2種
温泉街
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北陸3県で最大級の温泉街のひとつである。石川県においては、山代・山中・片山津という順序で温泉地が呼ばれるように、その順序で大きさを表すものといえる。
歓楽温泉としての知名度は高く、近畿地方では男性が「山代に行く」といえば大抵、女遊びに行くことを暗喩するといわれるほど、戦後は歓楽温泉として著しい発展を遂げた。
共同浴場「山代温泉総湯」は藩政時代から続く共同浴場である。
江戸時代の温泉場は、共同浴場を中心として、まちがつくられており、共同浴場の周りに温泉宿が立ち並び、湯治客は共同浴場に通ったり、ときには自然の中を散策しながら長逗留していた。この共同浴場が「総湯」と呼ばれ。総湯を中心とした周囲の街並みを「湯の曲輪(ゆのがわ)」といい、北陸特有の呼び方となっている。
また、近世には古九谷を再興した吉田屋窯が置かれた場所で、今もその流れを汲む窯場があり、観光客に人気が高く、絵付け体験ができる「国指定史跡 九谷焼窯跡展示館」となっている。
古来より多くの文人墨客にも愛されており、中でも美食家であり芸術家としても知られる北大路魯山人が半年間滞在した別荘は現在、「魯山人寓居跡いろは草庵」という施設となっている。
はづちを楽堂は紅殻格子を基調としたオープン・スペースで温泉街散策の休憩所、様々なイベントが催される。
2009年(平成21年)8月2日に新総湯が開業、2010年(平成22年)10月3日に明治時代の総湯を復元した古総湯が開業。
歴史
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725年(神亀2年)、泰澄から白山権現の由来を聞いた行基が、白山からの帰路に羽を休める八咫烏(やたガラス)を見つけ、手を浸したところ温泉を発見したという開湯伝説がある[1]。
平安時代末期には現在、温泉地内に薬師如来が祀られている薬王院温泉寺の基礎を築いたと言われる明覚上人により七堂伽藍が建立され、町は大いに賑わったとされる。
寺の境内には「めかくしさん」とよばれる明覚上人供養の石造五輪塔(室町時代、国の重要文化財)があり、現在は祠が建てられている。
山代温泉は共同浴場(惣湯)の四周に温泉旅館があり、更にその南側に農家や商家が取り囲む空間構造を持っていた。旅館数は18世紀には18軒ほどを数え、以後戦後まで基本的にこうした街構成が続いた。
明治時代には多くの文化人に愛され、芸術家の北大路魯山人、詩人の与謝野晶子がその代表格である。山代の湯女は明治時代中期には既にいたが、大正中期に日本初の旅行温泉ライターの松崎天民が記した『温泉巡礼記』(磯部甲陽堂、1918年)で、山代の湯女が紹介されたことで世に知られるようになった。
戦後は北陸本線の電化、北陸自動車道の開通に伴い、関西や中京の奥座敷として発展した。
1970年(昭和45年)に最寄りの作見駅が加賀温泉駅と改称し特急が停まるようになり、集客数も増えた。
最盛期には年間250万人以上の人が訪れ、同時に日本有数の歓楽街も発達した。しかし1980年代から客足は次第に鈍り、バブル崩壊以降に伴って宿泊客は減少し、最盛期には50軒を数えた宿泊施設は半減し、県内トップだった宿泊客数も能登にある和倉温泉にその座を奪われることとなった。
交通アクセス
参考文献
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脚注
- ^ 新市における温泉のあり方に関する報告書<概要版>加賀市・山中町合併協議会温泉研究部会 - 総務省
関連項目
外部リンク
- 山代温泉観光協会
- 加賀山代温泉商工振興会
- 山代温泉五時間『温泉巡礼記』松崎天民(磯部甲陽堂、1918年)
- 山代温泉加賀温泉郷