小野 美材(おの の よしき)は、平安時代前期の貴族・文人・能書家。参議・小野篁の孫。大内記・(小野俊生)または大内記・小野忠範の子。官位は従五位下・大内記。
経歴
文章生から仁和2年(886年)文章得業生を経て、寛平4年(892年)対策に及第し、寛平6年(894年)少内記に任ぜられる。この間の元慶4年(880年)には史上初めて(穀倉院学問料)の支給を受けたともされる[1]。
寛平9年(897年)従五位下・大内記に叙任され、のち(伊予権介)・(信濃権介)と地方官も兼ねた。延喜2年(902年)(卒去)。
人物
書に卓越し、寛平9年(897年)の醍醐天皇の大嘗会では、悠紀主基屏風の(色紙形)の清書を行っている。また大内裏の西面三門(談天門・藻壁門・殷富門)の額字を書いたとされる[2]。なお、他の三面は三筆の手による物(南面・弘法大師、北面・橘逸勢、東面・嵯峨天皇)とされており、美材が三筆に比肩する腕前と見られていた様子が窺われる。
また詩文にも秀で、漢詩作品が『本朝文粋』や『(菅家後集)』に採られるとともに、勅撰歌人として『古今和歌集』に2首、『後撰和歌集』に1首の和歌作品が採録されている[3]。
官歴
『古今和歌集目録』による。