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小笠原 秀清(おがさわら ひできよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士・故実家。室町幕府幕臣・細川氏(後の肥後藩主家)家臣。一般には小笠原少斎[注釈 2]の名で、細川ガラシャを介錯した人物として知られる。
生涯
関ヶ原の戦い以前
天文16年(1547年)[注釈 1]出生。生家の(京都小笠原氏)は、室町時代初期に小笠原宗家((信濃小笠原氏))から分かれ、代々京都で奉公衆として室町幕府に仕えていた。父の(小笠原稙盛)(稙清、備前守・民部少輔)は足利義輝の近習[注釈 3]であったが、永禄8年(1565年)5月19日の永禄の変で義輝と共に討死した[2]。秀清は変の後に浪人となり京都深草に住し加々美少左衛門と名をあらためていたが[3][注釈 4]、後年丹後国で細川藤孝の客分となり[注釈 5]、500石(600石とも)を給された[3]。後に剃髪して少斎と号したが、その時期は藤孝と同時の天正10年(1582年)[5]とも、慶長元年(1596年)[2]ともいう。
最期
慶長5年(1600年)6月、細川忠興が会津征伐に従軍すると、家老であった秀清は、(川北一成)[注釈 6]・稲富祐直(一夢)らとともに大坂屋敷の留守居を命じられた。7月16日、忠興の正室の玉子(ガラシャ)の大坂城登城を促す石田三成方の使者が来るが、秀清らはこれを拒絶。ガラシャと相談の上、重ねて要求のあったときには自害すると決定した。17日、石田方の兵に屋敷を囲まれると、秀清はガラシャの胸を長刀で突き介錯した。この後、秀清は屋敷に火をかけて、川北一成らと共に自害した。享年54[1]。秀清の家臣三名もこれに殉じた[1]。稲富祐直は包囲方に加わっていた砲術の弟子の手引きで逃亡したため、後に忠興の勘気を蒙ることになった。
武家故実
生家の京都小笠原氏は室町幕府において6代将軍足利義教以降、代々将軍の弓馬師範を務める家柄であり、武家故実の中心的存在であった[7]。秀清も武家故実に関与していたようで、(蜷川家文書)の武家故実に関するものには秀清の口伝本を書写したものがある[8]。また弓術の(日置流雪荷派)の伝書などには、始祖の吉田雪荷は秀清から故実を伝授されたとの記述がある[9]。秀清の子孫は明治維新期まで故実を伝えていた[注釈 7]。
系譜
秀清の子たちは、細川忠興の近親などと縁戚を結び、細川家の重職を歴任した。
- 嫡男・(長元)(長貞・長基、備前)には、細川忠興の姪で吉田兼治の息女たま(生母は細川幽斎の娘の伊也)が嫁した。子孫は知行六千石。藩主一門と婚姻を重ね、備頭・家老などの要職に就いた。[2]長元の次男の長昌・三男の長義が分家したが、長義は寛文9年(1669年)、陽明学徒追放により藩を離れた[10]。
- 次男・(長良)(宮内少)には、細川幽斎の息女で(長岡孝以)室であった千が再嫁した。知行六百石。子はなく一代で断絶[11]。キリシタンであったが棄教した。
- 三男・(長定)(与三郎・刑部入道玄也)には、細川家重臣の(加賀山興良)の息女みやが嫁した。興良はキリシタンで、元和5年(1619年)10月15日小倉で殉教[12]。長定一家もキリシタンであり棄教を迫られ続けたものの、その後も長らく秘匿されていた。細川家の移封に従い熊本に移るが、長崎奉行への密告があって幕府に露見したため、寛永12年12月22日[13](1636年1月30日[12])、熊本禅定寺において家族・従者と共に殉教した。平成19年(2007年)6月1日、家族・従者ともに福者に列せられることが決定し(ペトロ岐部と187殉教者)[14]、平成20年(2008年)11月24日に長崎県長崎市の長崎県営野球場で列福式が執り行われた[15]。
- 小笠原家は、秀清-長元-長之-長英-長知-長軌(長衛[要出典])-長宗[要出典]-長頭-長視-長供[要出典]-長厚と続く。なお、秀清が介錯したガラシャの嫡孫にあたる(長岡忠春)の正室には、秀清の孫にあたる長之の娘の三が嫁した。また、第6代当主・小笠原備前長軌(ながのり)は、細川宣紀の娘の津與姫を妻に迎えている。
演者
脚注
注釈
- ^ a b 享年からの逆算。
- ^ 勝斎、松斎、尚斎などの表記も見られる。
- ^ 「永禄六年諸役人付」に申次として小笠原備前稙盛、小笠原又六の名がある。
- ^ 木下は、父の稙盛が「令一味御敵」を理由に所領の没収を命じられた永禄12年5月7日付の幕府奉行人連署奉書が残されており、稙盛・秀清父子は永禄の変後に三好三人衆によって擁立された足利義栄に仕えたため、後に足利義昭が将軍になると処分を受けたと推測している[4]。
- ^ 細川氏の丹後支配は天正8年(1580年)以降。
- ^ もと明智氏家臣。ガラシャ輿入れに従い細川家に。ガラシャの味土野幽閉にも供した。子の代で河喜多と改姓[6]。
- ^ 『明治十五年に至り、時の当主(小笠原長厚)の代で、旧細川氏の守護神である出水神社(水前寺公園)に小笠原流最後の流鏑馬を奉納し、その活動を終えた。 しかし、その装束・伝書故実等は、現在鎌倉の武田流司家に保存維持されている。』(「武田流弓馬道」の旧ウェブサイト より引用。)
出典
- ^ a b c 常楽寺跡 「小笠原家累代之墓所 小笠原尚斎之墓」 案内板
- ^ a b c 「新・肥後細川藩侍帳」小笠原七郎の項
- ^ a b 「小笠原家のこと」.
- ^ 木下.
- ^ 「ありのままの熊本アーカイブス」
- ^ 「河喜多家先祖附」
- ^ 二木.
- ^ 蜷川家文書之四 附録四九 「射禮私記」など
- ^ 『弓術・馬術』
- ^ 「新・肥後細川藩侍帳」小笠原夫五郎、小笠原勘助長義の項
- ^ 「新・肥後細川藩侍帳」小笠原宮内少の項
- ^ a b カトリック中央協議会 2007b, p. 2.
- ^ 「新・肥後細川藩侍帳」小笠原玄也の項
- ^ カトリック中央協議会 2007a.
- ^ カトリック中央協議会 2009.
参考文献
- 橋本博 編「永禄六年諸役人付」国立国会図書館デジタルコレクション 『大武鑑』 巻之1、大洽社、1935年。doi:10.11501/1015270。 NAID 00008261 。2022年1月29日閲覧。
- (木下昌規)「永禄の政変後の足利義栄と将軍直臣団」『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年。ISBN (978-4-87294-875-2)。(初出:天野忠幸 他編『論文集二 戦国・織豊期の西国社会』日本史史料研究会、2012年)
- 二木謙一「室町幕府弓馬故実家小笠原氏の成立」『中世武家儀礼の研究』吉川弘文館、1985年5月1日。ISBN (9784642025324)。
- 東京大学史料編纂所 編「附録四九 射禮私記」『蜷川家文書之四』 大日本古文書 家わけ第二十一、東京大学出版会、1992年9月8日、360頁。ISBN (978-4-13-091234-1) 。
- 今村嘉雄、小笠原清信、岸野雄三 編『弓術・馬術』 第3巻、人物往来社〈日本武道全集〉、1966年。doi:10.11501/2466847。ISBN (978-4-13-091234-1) 。
- 「常楽寺跡 小笠原少斎の墓(熊本市中央区)」 『ぶらり歴史旅一期一会』 -2022年1月29日閲覧
- “新・肥後細川藩侍帳”. 肥後細川藩拾遺. 2007年12月24日閲覧。
- “霜女覚書”. 肥後細川藩拾遺. 2007年12月24日閲覧。
- “ガラシャ夫人御生害・5(小笠原家のこと)”. 津々堂のたわごと日録. 2017年7月16日閲覧。
- “治部左衛門家「先祖附」にみる河喜多家”. 津々堂のたわごと日録. 2022年1月29日閲覧。
- (Internet Archive、2016年3月4日) - 旧サイト []
- (Internet Archive、2005年9月16日) - 旧サイト []
- “日本188殉教者名簿” (pdf). カトリック中央協議会. 宗教法人 カトリック中央協議会. p. 2 (2007年8月27日). 2022年1月29日閲覧。
- “ペトロ岐部と187殉教者の列福、正式に決定”. カトリック中央協議会. 宗教法人 カトリック中央協議会 (2007年6月1日). 2022年1月29日閲覧。
- “列福式のお礼とご報告”. カトリック中央協議会. 宗教法人 カトリック中央協議会 (2009年3月12日). 2022年1月29日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 我が姫垣-細川ガラシャ - ガラシャ自害時の資料など。