» www.Giftbox.Az - Bir birindən gözəl hədiyyə satışı
ウィキペディアランダム
毎日カテゴリ
共有: WhatsappFacebookTwitterVK

小佐々氏

小佐々氏(こざさし)は、日本氏族宇多天皇を太祖とし敦実親王を初代とする第17代近江守佐々木満信一族が、室町幕府4代将軍足利義持倭寇取締りの命により、肥前国小佐々村へ下向した肥前小佐々氏の三本家が有力な家系である[1][2][3][4]

小佐々氏
七ッ割平四ッ目
(ななつわりひらよつめ)
本姓 宇多源氏佐々木流
小佐々氏
家祖 宇多天皇
種別 武家
主な根拠地 近江国肥前国
著名な人物 小佐々弾正定信
小佐々弾正純俊
小佐々弾正純正
小佐々兵部純勝
小佐々兵部純吉
中浦ジュリアン(幼名・小佐々甚吾)
小佐々市右衛門前親
小佐々健三郎祐利
小佐々隼雄頼興
支流、分家 中浦小佐々氏(中浦殿)
多以良小佐々氏(多以良殿)
松島小佐々氏(松島殿)
(凡例) / (Category:日本の氏族)

戦国時代には、西海西彼杵半島西岸から五島灘海域を領有支配して、松浦水軍と対峙して船戦(海戦)で領海を防衛して五島灘の制海権を保持し続けた「小佐々水軍」と呼ばれる有力な水軍勢力である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12]。有名な天正遣欧少年使節中浦ジュリアン(幼名・小佐々甚吾)は、小佐々氏一族の有力家系の中浦城主・小佐々兵部純吉(中浦殿)の息子である[1][2][3][5][6][13][14][15][16]

江戸時代には、肥前国大村藩家老中老番頭奉行などの重職を歴任しており、幕末戊辰戦争では勤皇官軍)の大村藩の東征軍や北伐軍の隊長や分隊長を務めて活躍した[1][4][5][17][18][19][20]

経歴

平安時代〜室町時代

宇多源氏小佐々氏の家系は、宇多天皇を太祖とする宇多源氏(近江源氏嫡流の佐々木定綱の後裔であり、応永年間に室町幕府4代将軍足利義持の倭寇取締の命により、宇多源氏第15代の近江守佐々木満信が次男の佐々木時信一族を伴って肥前国小佐々村に下向して、小佐々浦の小城多(沖田)城に居城しており、地名から小佐々氏を称した[1][2][3][4][5]

戦国時代〜安土桃山時代

 
戦国時代の小佐々水軍の支配海域[5]
 
小佐々弾正・甚五郎塚
右から小佐々兵部純吉と小佐々弾正純俊の石祠。左は純俊と純吉の顕彰墓碑。
(佐世保市南風崎町)
 
長崎県指定史跡・多以良の小佐々氏墓所(西海市大瀬戸町多以良内郷寺山)
 
小佐々氏墓所のキリシタン墓(西海市大瀬戸町多以良内郷寺山)

小佐々氏中興の祖とされる第21代の小佐々弾正大弼定信(初代小佐々弾正)は勢力を拡大して西肥前で有力な一族となり、平戸城主松浦天叟の女を娶り、引出物に松浦家に伝わる天国(あまくに)の宝刀を贈られている[1][4][21]。定信は北方の松浦水軍(倭寇)の南下阻止のため、戦国時代が始まる応仁元年(1467年)に西彼杵半島西岸の多以良(たいら)村の城ノ辻山に城を構えて、大手口の小峰の居館に本拠を移して一族全員が居住した[1][2][3][4][5]。小佐々氏は西彼杵半島五島灘沿岸の在地領主である外浦(ほかうら)衆の惣領家となり、小佐々水軍として七釜港(鳥崎港、現・西海市西海町七釜)を水軍基地、小佐々水軍城(小佐々城・城の辻古城、現・西海市大瀬戸町多以良内郷 字城・字小峰・字田平・字道目木)を本城とした。また、中浦城(現・西海市西海町中浦)と松島城(現・西海市大瀬戸町松島)を支城にして、西彼杵半島西岸北端の面高(現・西海市西海町面高)から南端の三重(現・長崎市三重町)と、西方海上の五島列島近くの平島(現・西海市崎戸町平島)までの島嶼部にも出城を築いて、九州北西海域(西海)の五島灘を領有支配した[1][4][5][6][7][8][9][10][13][22][23][24][25][26][27][28][29][30][31][32][33]

小佐々水軍は、中国朝鮮半島などの海外交易、西海航路の要衝である寺島水道角力灘の海上関料(警護料)、五島灘と大村湾とを陸路で結ぶ北往還と南往還の通行関料、中浦の隠し金山経営や馬生産などで栄えた[1][2][3][5][12][23][34]。肥前国大村藩作成の『大村郷村記』「中浦村」の「由緒之事」には、戦国時代初期から江戸時代初期の万治3年(1660年)まで小佐々氏が中浦村の領主であり、また「多以良村」の「旧来地頭之事」には戦国時代に小佐々氏が五島灘西岸から島嶼部の十ヶ村を領有しており、さらに幕末まで多以良村の領主として知行していたことが記されている[1][3][5][6][9][10][11]。また、戦国時代の西肥前では小佐々弾正や小佐々兵部の名は代々西海の勇将として知られている[2][12][23][35]

永禄12年(1569年)に大村純忠の要請で、多以良本城の城主の小佐々弾正大弼純俊とその甥で中浦城主の小佐々兵部少輔純吉は、肥前国彼杵郡宮村(現・長崎県佐世保市)の葛峠(久津峠・くづのとうげ)の合戦に参戦し、敗走する純忠軍を助けるために、純忠軍の大村源次郎純定(後に大村藩の初代主席家老となる大村彦右衛門純勝の父)と共に殿をつとめ、三士は奮戦して討死した[1][2][4][5][6][35][36][37][38][39][40][41]。この戦功は幕末まで語り継がれており、『大村郷村記・宮村』など各種の史料に記述されている[1][2][4][38][41][42][43][44]

戦国時代後期の小佐々水軍は五島灘を領有支配して繁栄しており、五島灘の権益を奪うために北方の松浦水軍により頻繁に侵攻を受けたが、船戦で反撃して領海を堅守している[1][3][45]。大村郷村記などの史料には「崎戸浦迫合」として永禄13年(1570年)正月の崎戸浦の船戦が記述されている。これらによると平戸松浦水軍の兵船が崎戸城を襲ってきたとき、小佐々弾正少弼純正(小佐々氏本城城主、五代小佐々弾正、小佐々弾正純俊嫡男)が反撃して崎戸浦で船戦になり、緒戦に純正配下で弓の名手の小佐々常陸介純久(七釜城主)が敵将二人を射殺し、小佐々水軍船手衆弓鉄砲隊の攻撃により敵軍を殲滅した[40][41][42][43][44][46][47]

小佐々氏一族の有力家系である中浦城主小佐々兵部純吉の息子の中浦ジュリアン(幼名・小佐々甚吾)は、イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが企画し、九州キリシタン大名大村純忠などがローマに派遣した天正遣欧少年使節(1582年1590年)の一員として1582年に長崎を出帆、1585年ローマ教皇グレゴリウス13世およびシクストゥス5世謁見し、1590年に帰国している[1][5][6][14][15]

葛の峠の合戦で殿して戦死した小佐々弾正純俊と小佐々兵部純吉両士を埋葬した墓所は戦国時代に建立されて平成4年(1992年)に修復されており、「小佐々弾正・甚五郎塚(小佐々弾正・兵部塚)」(現・佐世保市南風崎町)として現存する[2][4][5][48]

小佐々水軍城の搦手口には、小佐々氏の菩提寺であった文明16年(1484年)創建の東楽寺の古廟があるが、後のキリシタン時代に改葬されて残されている。現在は長崎県指定史跡「多以良の小佐々氏墓所」(長崎県西海市大瀬戸町多以良内郷寺山)であり、正面に石灯籠二対と大型の切石平塚一基、後方に切石積みの墓二基、左側にキリシタン墓二基と台座一基がある[1][2][3][4][5][7][37][49][50]

小佐々氏三本家の家紋は、中浦小佐々氏は宇多源氏佐々木一族の祖神である近江国沙沙貴神社神紋と同じ「七ッ割平四ッ目」であり、また多以良小佐々氏は「菱四ッ目」で、松島小佐々氏は「隅立四ッ目」である[1][2][3]

追記事項

小佐々氏の名を最初に記録した史料は、鎌倉時代寛元2年(1244年)の山代文書[51]であり、小佐々太郎重高の名が記されている[52]南北朝時代建徳2年(1371年)に九州探題今川了俊の初巡見を迎えた松浦党の中に小佐々備前守、小佐々守童丸、小佐々三郎入道の名が[53]、またその後の松浦党の一揆契諾状の署名の中に こささ備前守の名がある[53]。これらの史料の記載から、宇多源氏佐々木氏の下向以前の小佐々村には松浦党の小佐々氏が居住していたことは史実であるが、平戸藩作成の「家世伝公族伝」の峯公公族によれば、松浦党小佐々氏は嵯峨源氏の流れを嗣ぐ松浦披の子の松浦上の長子を祖とすると記述されているものの、この家系に関する詳しい記載はない[54]。また、松浦氏の家臣(平戸藩士)の系譜を記載した「増補藩臣譜略」や「格禄勤役記」にも小佐々氏の名は記載されていないため、江戸時代以降の松浦党小佐々氏の存否は不明である[55][56]。一方、佐々木盛綱の子孫の佐々木小四郎が小佐々村に下り、小佐々小四郎と称して矢岳太守になり、各種の事蹟を残したとの伝承があるが、佐々木盛綱は前述した宇多源氏小佐々氏の先祖である佐々木定綱の弟であり、佐々木氏系図には盛綱の子孫に小四郎なる人物は存在しないため不詳とされている[57]

記念碑等

  • 小佐々弾正・甚五郎塚(小佐々弾正・兵部塚):長崎県佐世保市南風崎町。
  • 多以良の小佐々氏墓所(長崎県指定史跡):長崎県西海市大瀬戸町多以良内郷寺山。
  • 小佐々水軍顕彰之碑:西海市西海町七釜港。
  • 小佐々學博士顕彰之碑:西海市西海町七釜港。
  • 中浦ジュリアン顕彰之碑:西海市西海町中浦「中浦ジュリアン記念公園」西側隣接地。
  • 西方のローマを指さす中浦ジュリアン像:「中浦ジュリアン記念公園」展示室屋上。
  • 中浦ジュリアンの生涯を描いたフレスコ壁画:「中浦ジュリアン記念公園」展示室内。
  • 十字架のように手を広げて立つ中浦ジュリアン像:西海市西海町木場「西海スポーツガーデン体育館」前。
  • 禁教下で布教して歩く中浦ジュリアン像:長崎県島原市白土町「カトリック島原教会」前。
  • 天正遣欧少年使節顕彰之像:長崎県大村市森園町。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 小佐々学「福者中浦ジュリアンと中浦城主小佐々氏の家系 -中浦城主家子孫に伝わる源姓小佐々氏系図について-」『キリシタン文化研究会会報142号』キリシタン文化研究会 上智大学、2013年。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 小佐々学「小佐々弾正・甚五郎塚と中浦ジュリアン」『大村史談48号』大村史談会、1997年。 
  3. ^ a b c d e f g h i j 小佐々学「小佐々水軍と中浦ジュリアン」『大村史談51号』大村史談会、2000年。 
  4. ^ a b c d e f g h i j k 大村藩「巻之九 小佐々氏」『新撰士系録』大村市史料館蔵。 
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m 脇田安大「第Ⅱ部 西海地区のキリスト教、3. 中浦ジュリアンと小佐々水軍・4. 小佐々一族の関連遺跡」『世界遺産公式ガイドブック 「探訪 長崎の教会群」 大村・西海外海編』長崎の教会群情報センター、2018年。 
  6. ^ a b c d e f 西海町教育委員会「第二編歴史 第二章ヨーロッパ世界との出会い 第一節西欧キリスト教文化の伝来と横瀬浦 二当時の日本・その時代環境-海洋事情をまじえて-」『西海町郷土誌』西海町、2005年。 
  7. ^ a b c 小佐々学「小佐々水軍城とその関連遺構 -戦国期に五島灘を支配した小佐々水軍の本城と居館群跡-」『城郭史研究 23号』日本城郭史学会、2003年。 
  8. ^ a b 西ケ谷恭弘・光武敏郎編「小佐々水軍城(長崎県)」『城郭みどころ事典 西国編』東京堂出版、2003年。 
  9. ^ a b c 藤野保編「多以良村、旧来地頭之事・古城蹟之事 城の辻古城・古廟之事」『大村郷村記 第五巻』国書刊行会、1982年。 
  10. ^ a b c 大瀬戸町編「第五節 郷土の史跡 1.乱世の古城跡 (2)多以良の古城跡、2.先人の墓所 (6)小佐々氏の古廟」『大瀬戸町郷土誌』大瀬戸町、1996年。 
  11. ^ a b 藤野保編「中浦村、由緒之事」『大村郷村記 第五巻』国書刊行会、1982年。 
  12. ^ a b c 小佐々喬志「崎戸本郷における浜迫の祭祀行事」『大村史談51号』大村史談会、2000年。 
  13. ^ a b 小佐々学「東アジアと西海の城 -小佐々水軍城を中心として-」『城郭史研究 35号』日本城郭史学会、2015年。 
  14. ^ a b 日本史広辞典編纂委員会 編「中浦ジュリアン」『日本史広辞典』山川出版、1997年。 
  15. ^ a b 永原慶二 監修「中浦ジュリアン」『岩波日本史辞典』岩波書店、1999年。 
  16. ^ 外山幹夫 著「長崎県の名族・小佐々(こざさ)氏」、オメガ社 編『日本の名族十一・九州編Ⅰ』新人物往来社、1989年。 
  17. ^ 小佐々学 監修「大村藩家老小佐々前親と義犬華丸の墓」『義犬華丸ものがたり』長崎文献社、2016年。 
  18. ^ 小佐々学「戊辰之役 北伐軍大村一番隊人別」『大村史談52号』大村史談会、2001年。 
  19. ^ 長崎県教育会 編「小佐々祐利」『大礼記念長崎県人物伝』長崎県教育会、1919年。 
  20. ^ 日本歴史学会 編「小佐々祐利」『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。 
  21. ^ 大瀬戸町教育委員会 編『大瀬戸町史跡探訪』大瀬戸町教育委員会、1980年。 
  22. ^ 丸山雍成「第十一章 近世城郭への二つの途 三 戦国城郭の調査方法」『前近代日本の交通と社会 日本交通史への道1』吉川弘文館、2018年。 
  23. ^ a b c 小佐々学「中浦ジュリアンを生んだ西海の歴史と風土」『長崎県地方史だより 68号』長崎県地方史会、2009年。 
  24. ^ 西ケ谷恭弘編「小佐々水軍城」『探訪 日本の名城7. 海に臨む名城』夢みつけ隊、2003年。 
  25. ^ 西ケ谷恭弘編「象徴としての城」『城郭の見方・調べ方ハンドブック』東京堂出版、2008年。 
  26. ^ 児玉幸多監修「小佐々城」『日本城郭大系 17巻 長崎・佐賀』新人物往来社、1980年。 
  27. ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会編「小佐々城」『角川日本地名大辞典 42長崎県』角川書店、1987年。 
  28. ^ 長崎県庶務課史誌掛「多以良村、城ノ辻城趾」『西彼杵郡村誌』長崎県、1885年。 
  29. ^ 長崎県教育委員会編「多以良城」『長崎県中近世城館跡分布調査報告書Ⅱ詳説編』長崎県教育委員会、2011年。 
  30. ^ 丸山雍成「近世城郭への二つの途」『海路 11号 戦国・織豊期の九州の城郭』海鳥社、2013年。 
  31. ^ 西ケ谷恭弘「日本の城石垣の歴史と北九州の戦国・織豊期の城石垣」『海路 11号 戦国・織豊期の九州の城郭』海鳥社、2013年。 
  32. ^ 伊藤一美「中世小佐々氏と小佐々水軍城の城下機能」『海路 11号 戦国・織豊期の九州の城郭』海鳥社、2013年。 
  33. ^ 小佐々学「小佐々水軍城と西海の城 -東アジアの城郭との関わりについて-」『海路 11号 戦国・織豊期の九州の城郭』海鳥社、2013年。 
  34. ^ 西日本文明交流史取材班「天正少年使節 中浦ジュリアン」『西日本文明交流史・海を駆けた人たち』西日本新聞社、1994年。 
  35. ^ a b 外山幹夫『大村純忠』静山社、1981年。 
  36. ^ 小佐々学「長崎県指定史跡 多以良の小佐々氏墓所について」『大村史談 39号』大村史談会、1991年。 
  37. ^ a b 小佐々学「中浦ジュリアンを生んだ西海の歴史と風土」『長崎県地方史だより 68号』長崎県地方史会、2009年。 
  38. ^ a b 藤野保 編「宮村、葛の峠古戦場」『大村郷村記 第三巻』国書刊行会、1982年。 
  39. ^ 大村藩『大村家記 巻之二』大村市史料館蔵。 
  40. ^ a b 大村藩「巻之九 小佐々氏」『新撰士系録』大村市史料館蔵。 
  41. ^ a b c 大村藩「巻之二 大村氏」『新撰士系録』大村市史料館蔵。 
  42. ^ a b 大村藩『大村家記』大村市史料館蔵。 
  43. ^ a b 大村藩『大村家覚書』大村市史料館蔵。 
  44. ^ a b 大村藩『大村家譜』大村市史料館蔵。 
  45. ^ 外山幹夫「福田文書」『中世九州社会史の研究』吉川弘文館、1983年。 
  46. ^ 藤野保 編「崎戸浦迫合」『大村郷村記 第六巻』国書刊行会、1982年。 
  47. ^ 大村藩「巻之一 大村氏」『新撰士系録』大村市史料館蔵。 
  48. ^ 「小佐々弾正・甚五郎塚」は、JR大村線のハウステンボス駅と南風崎駅との間にある南風崎トンネル上の西側斜面にある。ハウステンボス駅から早岐瀬戸沿いに南へ徒歩5分、南風崎駅から線路沿いに北へ徒歩3分。
  49. ^ 藤野保「多以良村、古廟之事」『大村郷村記 第五巻』国書刊行会、1982年。 
  50. ^ 「長崎県指定史跡・多以良の小佐々氏墓所」は、小佐々兵部純吉と伯父の弾正純俊両士の墓所で、昭和初期から地元の多以良下郷の郷社となり、純吉と同音の「住吉神社」として祀られている。国道202号線の下多以良橋の南端から、多以良川の東側沿いに北へ徒歩1分。
  51. ^ “松浦山代家文書”. 文化遺産オンライン
  52. ^ 瀬野精一郎 編『松浦党関係史料集 一』続群書類従完成会、1996年。 
  53. ^ a b 瀬野精一郎 編『鎮西御家人の研究』吉川弘文館、1975年。 
  54. ^ 平戸藩『家世伝公族伝』松浦史料博物館 蔵。 
  55. ^ 平戸藩『増補藩臣譜略』松浦史料博物館 蔵。 
  56. ^ 平戸藩『格禄勤役記』松浦史料博物館 蔵。 
  57. ^ 小佐々町郷土史編纂委員会『小佐々町郷土史』小佐々町教育委員会、1996年。 

参考文献

  • 戸山幹夫「長崎県の名族・小佐々(こざさ)氏」『日本の名族十一・九州編Ⅰ』オメガ社編、新人物往来社、1989年。

関連項目

ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム。