地理
川越市の南部に位置し、新河岸川を跨いだ北部を牛子、同じく新河岸川を跨いだ東北部を南田島飛地、東部をふじみ野市川崎、東南部をふじみ野市(元福岡)、南部をふじみ野市北野、西部を(藤間)、西北部を(砂)及び下新河岸と接する。地域は新河岸川右岸の低地及び台地にあたり、農地の散見される住宅地として利用されている[4]。北部は東武東上線新河岸駅が、南部は同線上福岡駅が徒歩圏内にある。
河川
歴史
古くは(三芳野郷)(仙波庄)に属した[5][6]。『(北條役帳)(小田原衆所領役帳)』に「二百貫文寺尾諏訪三河守」とあり、また『(北條記)((小田原記))』 に「武州寺尾の住人諏訪右馬助」とあり、この地に1546年(天文15年)の川越夜戦の際に北条氏康の使者として川越城内に入った後北条氏の家臣、(諏訪右馬亮)の居城があるという伝承を裏付けている[4][5][6][7]。ただし橘樹郡寺尾の支城馬場村、秩父郡寺尾村など異説がある[5][6][7]。江戸時代に入ると、諏訪氏の家臣だった河野家、望月家等がこの地に帰農した[8]。江戸初期から御料所であったが、川越藩主・酒井重忠の代に河越城附の村となった[5][6]。『新編武蔵風土記稿』では民戸75[6]。この頃の小名に猫山(根小屋の転訛といわれる)、城山、舟戸、久保、柳下、五反田があった[5][6]。村高は『(武蔵田園簿)』によれば154石、『元禄郷帳』では366石余り、『天保郷帳』では367石余りとされる[4]。南田島村・牛子村・上新河岸・下新河岸から入作が行われ、(藤間村)・久下戸村に出作が行われていた[4]。 1798年(寛政10年)に書かれた『(寺尾川岸ノ由来書)』によれば1638年(寛永15年)、仙波東照宮が同年1月28日の川越大火によって消失したのち、その再建の際に川越藩主堀田正盛は荒川筋の(老袋河岸)及び平方河岸から資材を陸揚げせよと命じたが、春先の渇水のため運送がかなわず寺尾村の五反田から陸揚げすることにした[8]。この際に古市場・難畑(現・富士見市(南畑))・(引俣)((引又宿)。現・志木市)の3か所の土橋を運送の妨げになるため壊し、下を高瀬舟が行き交えるよう板橋に架け替えた[8]。この時の河岸は再建物資を陸揚げするための臨時に造成されたものであったが、正保年間に川越藩主松平信綱によって改めて恒久的な河岸を開くよう命じられた。この寺尾河岸は川越五河岸のひとつとして栄え、1774年(安永3年)に船問屋が公認され、明治初年までに中屋・伊勢仙・蔦屋・吉野屋・石川屋・新屋(あたらしや)・洲崎屋の7軒の船問屋が開業された[8]。明治10年代までに船問屋は中屋・伊勢仙・蔦屋・洲崎屋の4軒に減少した。
明治時代に入って1889年(明治22年)4月1日の町村制施行に伴い、入間郡砂新田連合戸長役場区域内の寺尾村は同区域内の(砂村)・扇河岸村・上新河岸村・下新河岸村・(砂新田)及び大井町連合戸長役場区域の(藤間村)と合併し高階村の大字のひとつとなった[9]。1876年(明治9年)の人口は524人[10]。新河岸川の水運は1931年(昭和6年)に改修工事の終了及び埼玉県からの(通船停止令)の発令により廃止され、五河岸全てが廃止された[11]。1939年(昭和14年)4月10日には福岡村福岡に一部が編入された[4]。 1955年(昭和30年)4月1日、高階村は川越市に編入され、寺尾は川越市の大字のひとつとなった[9]。
世帯数と人口
小・中学校の学区
交通
鉄道
地内に鉄道は引かれていないが、東武東上線・新河岸駅が最寄駅になる。
バス
- 川越市コミュニティバス「川越シャトル」(東武バスウエスト川越営業事務所・西武バス川越営業所に運行委託)33系統 - 寺尾バス停・寺尾折返場・が南部の並木通り沿いに所在している。
道路
国道、県道は地内に存在しないが、川越市道路愛称選定委員会により「並木通り」と愛称が制定された市道が南部に設置されている[13]。
史跡
施設
脚注
- ^ a b “川越市 町字別・男女別人口と世帯数”. 川越市 (2017年10月2日). 2017年10月14日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2017年10月11日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年5月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』角川書店、1980年7月。
- ^ a b c d e f g 『新編武蔵風土記稿巻之百六十六』、「大日本地誌大系(八)新編武蔵風土記稿 第八巻」雄山閣、1957年9月再版所収。
- ^ a b c d e f g h i 新編武蔵風土記稿 1929, p. 297.
- ^ a b 吉田東伍『増補大日本地名辞書 第六巻 坂東』冨山房、1970年6月増補(1903年10月初版)p429
- ^ a b c d 斎藤貞夫『川越舟運=江戸と小江戸を結んで三百年』さきたま出版会、1982年6月、pp27-81。
- ^ a b 『埼玉大百科事典 第三巻』埼玉新聞社、1974年11月。
- ^ 新編埼玉県史 別編5 統計 付録『町村編制区域表他』埼玉県、1981年3月。
- ^ 新河岸川広域景観プロジェクト便vol2
- ^ “町名地番別川越市立小・中学校検索”. 川越市 (2015年1月3日). 2017年10月14日閲覧。
- ^ 愛称道路-川越市
参考文献
- 蘆田伊人編 編「巻ノ166入間郡ノ11 寺尾村」『大日本地誌大系』 第12巻 新編武蔵風土記稿8、雄山閣、1929年8月。(NDLJP):1214888/155。
- “愛称道路”. 川越市役所HP. 2020年1月16日閲覧。
- “新河岸川広域景観プロジェクト便vol2”. 埼玉県HP. 2020年1月16日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 川越市公式ホームページ