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寺尾常史

寺尾 常史(てらお つねふみ、1963年(昭和38年)2月2日 - )は、鹿児島県姶良郡加治木町 (現在の姶良市)出身(出生地は東京都墨田区)で井筒部屋所属の元大相撲力士。得意技は突っ張り、押し、いなし、叩き、下手投げ。最高位は東関脇。本名は福薗 好文(ふくぞの よしふみ)。身長185cm、体重116kg。

寺尾 常史
土俵下の錣山親方(2016年5月22日)
基礎情報
四股名 寺尾 節男→源氏山 力三郎→寺尾 節男→寺尾 常史
本名 福薗 好文
愛称 アビ[2]、タイフーン、土俵の鉄人
生年月日 (1963-02-02) 1963年2月2日(60歳)
出身 鹿児島県姶良郡加治木町(現・姶良市)
身長 185cm
体重 116kg
BMI 33.89
所属部屋 井筒部屋
時津風一門
得意技 突っ張り、押し、いなし、叩き、下手投げ
成績
現在の番付 引退
最高位関脇
生涯戦歴 860勝938敗58休(140場所)
幕内戦歴 626勝753敗16休(93場所)
優勝 十両優勝2回
(敢闘賞)3回
殊勲賞3回
技能賞1回
データ
初土俵 1979年7月場所[1]
入幕 1985年3月場所[1]
引退 2002年9月場所[1]
引退後 年寄錣山(後に錣山部屋を創設)
時津風一門無所属二所ノ関一門
趣味 パチンコ、ゴルフ、音楽鑑賞
備考
金星7個 (大乃国3個、千代の富士1個、北勝海1個、貴乃花1個、武蔵丸1個
2018年1月31日現在
テンプレート  プロジェクト 相撲

引退後は、年寄錣山となり、井筒部屋部屋付き親方を経て、分家独立し、錣山部屋の師匠として指導にあたる。角界での愛称は「土俵の鉄人[注 1]」、「アビ[注 2]血液型はA型、趣味はパチンコ、音楽鑑賞、ゴルフ[1]

来歴

 
寺尾の手形

生まれ育ったのは父・鶴ヶ嶺が居宅及び部屋を構えた墨田区であるが、大相撲入り後は父の出身地である鹿児島県を自身の出身地として届け出た。父・鶴ヶ嶺は厳格な人間であり、その影響で小さいころから父に対しては敬語を使っていたという。実際、父は年寄・13代井筒としても「何かあったら、まず自分の息子から叱る」としていた[3]

父は息子達に甘くすると弟子に示しが付かないと考えていたようであるが、体罰は滅多に行わなかった。母は寺尾曰く「お嬢様育ちなのに、どこか大雑把で豪快だった」とのことで、偶に三越の特選売り場で上下10万円の服を買って来て「こっちは安くても数が欲しいのに(笑)」と寺尾を苦笑させた[4]

墨田区立二葉小学校墨田区立両国中学校を卒業。兄二人とは異なり、小・中学校時代は相撲に興味がなかったが、安田学園高校入学後、上級生の嶋津慎司(のち井筒部屋の幕下・紫筒山)に誘われ相撲部に入る[5]。安田学園では控え選手に過ぎなかったが、厳しい稽古を乗り越えて試合で勝つことの爽快感から相撲にのめりこむようになり2年生の時には一日も早く角界入りしたいと思うようになっていた。長兄が次兄の入門の際に強硬に反対したことから角界入りしたいという気持ちをなかなか言い出せないでいた[6]。しかし、1979年(昭和54年)5月場所の千秋楽の日、で闘病中であった最愛の母を見舞った後長兄に突然「お前、学校やめて相撲取りになったらどうだ?」と声を掛けられた[6]。その後、母の通夜の晩に父に入門の意思を伝え、そのまま高校を中退した(母・節子は死ぬ間際に「相撲取りになって」と寺尾に告げていた。寺尾は後年インタビューで「あのお兄ちゃんの言葉は、おふくろの置きみやげだったと思ってるんですよ。きっと俺の気持ちを判っていて、相撲取りにならせてくれたんだな、って。」と往時を振り返っている[6]。)。

父が師匠を務める井筒部屋へ兄達に続き入門し、1979年7月場所初土俵。母の旧姓である寺尾を四股名とした[1]。入門当初は三段目昇進を目標にするほど、自身を期待薄と見ていた[7][8]1984年(昭和59年)7月場所新十両のとき「源氏山力三郎」と改名する。源氏山の四股名は同部屋に所属した30代横綱西ノ海が横綱昇進直後の場所まで名乗ったものであり、父自身も憧れの四股名であったことから息子に贈ったものである[9]。この四股名は1場所限りで、翌場所から元の四股名に戻している[注 3]1985年(昭和60年)1月場所で12勝3敗の成績で十両優勝し翌場所新入幕。入幕時のインタビューで「名脇役になれればいい。主役にはなれないと思うので」と答えていた[8]。6勝9敗と負け越して陥落するが翌場所も12勝3敗の成績で2度目の十両優勝で1場所で返り咲く。1987年(昭和62年)11月から名を常史(つねふみ)と改める。

初土俵の時に85kgしかなかった体重を100kgまで増やすために大変な努力をしたという。横になると口から食べたものが出る程食べ、夜も食べ物が胃から腸に下りるまで壁に寄りかかり、横になれるのは明け方から数時間程度という生活を約5年続け、100kgの大台に乗ったのは1984年(昭和59年)9月場所のことである。[10]

長兄の鶴嶺山は十両止まりだったが、次兄の逆鉾は関脇まで昇進していて、様々な兄弟記録を残している。1986年(昭和61年)9月場所には同時三賞受賞、1989年(平成元年)3月場所には同時関脇を果たした。また1990年(平成2年)11月場所には千代の富士横綱土俵入り太刀持ち露払いを務めた。

大乃国から1988年1月場所、1989年7月場所、1991年1月場所、と3個の金星を獲得。1989年1月場所、千代の富士から唯一の金星を獲得。1991年11月場所、北勝海に勝ち5個目の金星を獲得するなど活躍。1989年1月場所は1横綱2大関に勝ち殊勲賞、7月場所も1横綱2大関に勝ち技能賞、9月場所は北勝海に勝ち敢闘賞。1994年3月場所は2大関に勝ち敢闘賞、5月場所も2大関に勝ち殊勲賞。1995年(平成7年)3月場所には横綱貴乃花から初の供給となる金星を獲得した。

1997年(平成9年)3月場所には旭鷲山戦で右足親指を骨折し途中休場。初土俵以来続いた連続出場記録が1359で途切れた。

1998年頃から怪我の影響もあるが衰えが出始めたので、35歳から肉体改造を開始。徐々に効果が出始め1999年3月場所では、貴乃花や若乃花ら横綱と対戦できる地位まで番付を再度上げる。そして1999年11月場所では横綱・武蔵丸に勝ち、36歳で4年ぶり7個目の金星を獲得。30代後半を迎えた寺尾の突っ張りはなお衰えを知らなかったが、力士の大型化が進んだこともあってか2000年(平成12年)7月にはついに十両陥落。周囲からは引退の声も囁かれたが寺尾は続行を決意。翌年3月場所、5場所ぶりに幕内復帰した、38歳で年6場所制以降では最年長再入幕となった。その場所で輪島を抜く、当時歴代7位の幕内621勝を達成。

再陥落後は昇進のチャンスもあったが、十両上位の星運に泣いた。2002年(平成14年)9月場所、十両11枚目の地位で怪我により3日目から5日目まで途中休場。再出場の6日目に初白星を挙げ、最後の相撲となった千秋楽では小城錦に勝利を決めるも、5勝8敗2休と負け越し幕下陥落が必至となり同9月場所限りで現役引退。現役最末期の2002年頃には後の甥弟子にあたる鶴竜付け人に採用し、鶴竜はその中で寺尾の突っ張りを見て学んで覚えたという[11]

現役時代は相撲界では珍しい甘いマスクと筋肉質のソップ体型で、女性ファンからの人気と声援が多かった。若い頃は回転の速い上突っ張りといなしで勝負しており[1]、その敏捷な動きから海外公演で「タイフーン」の通称がついたほどだった。また右を差すこともあり、下手投げは強かった。晩年は突っ張りの後、父・兄が得意としていた両差しの相撲を取るようになった。現役時代は横綱を遠い存在と見ており、一度も横綱という地位に就くことを意識することはなかった[12]。引退後は年寄・錣山を襲名、井筒部屋の部屋付き親方を経て2004年(平成16年)1月、錣山部屋を創設[1]。同部屋からは2022年(令和4年)3月場所までに関脇阿炎小結豊真将、幕内・青狼、十両・王輝を出している[13]

2017年7月場所は、体調面を考慮して審判部を外れ、木戸(入場口)担当を務める[14]

2017年12月、2018年1月31日に行われる理事候補選挙に時津風一門の意向として鏡山親方を推す動きに異議を唱え、23代(元前頭2枚目湊富士)と直弟子の19代立田川(元小結豊真将)と共に一門から離脱した[13]。2月2日の副理事選挙では4人で副理事の3枠を争う中、実兄の14代井筒と異例の兄弟対決となった。結果は14票で落選となり、55歳の誕生日を飾れなかったが「一歩踏み出せた。意味は大きい」と晴れやかな表情だった[15][16]。その後、7月の相撲協会理事会で全ての親方は5つある一門のうちのいずれかに所属することが決定されたため、二所ノ関一門に加入を申請し9月21日に認められた。

2020年8月6日、弟子の阿炎による7月場所中の不適切行為(相撲協会の新型コロナウイルス対応ガイドライン違反行為)で指導監督責任を問われ、6カ月20%の報酬減額となった[17]。一部報道からは騒動の時の対応について「何故弟子の引退を引き止めず処遇を協会に丸投げしたのか」という批判の声が上がった[18][19]

2022年11月場所、弟子の阿炎が幕内最高優勝を果たした。錣山部屋からの幕内最高優勝は史上初[20]

家系

西ノ海(25代横綱)の曾孫(養女の養女の子供)、加賀錦(元幕下・本名は寺尾政喜)の孫、鶴ヶ嶺(元関脇)の三男、薩摩錦(元幕下)の従兄の孫。井筒3兄弟と言われ、長男が鶴嶺山(元十両)、次男が逆鉾(元関脇)、三男が寺尾。また、鶴ノ富士智万(元十両)は従弟に当たり、元中日ドラゴンズ選手の井上一樹は再従弟に当たる。長男(夫人と前夫との実子、つまり夫人の連れ子)は俳優寺尾由布樹、姪(逆鉾の娘)は元宝塚歌劇団娘役の天咲千華志摩ノ海航洋(元幕内)は義理の甥(天咲の夫)。夫人との間には他に息子が1人いる。

加賀錦は廃業後に国技館サービス株式会社の常務取締役を務めた。その妻・寺尾文子は相撲茶屋「吉可和」(よしかわ、相撲案内所 四番)を経営し、その経営権は寺尾の親族へと引き継がれた。

エピソード

  • 1991年3月場所、18歳の貴花田と対戦。学年で言うと高校3年生に相当する年齢の貴花田には負けられないと闘志を燃やした。立ち合いから突っ張るも、左上手からの出し投げに続く追撃の押しで敗れた。敗れた寺尾は、さがりを叩きつけるなど悔しさを露にした[21]。引退直後の会見で、「今まで一番悔しかった取組」としてこの一番を挙げた。それでも寺尾は引退後に「あの悔しさがあったから長く相撲が取れた」と語っている[1]。後の2010年に大相撲中継にゲスト出演した際に、この一番について「悔しい気持ちはわかるけど、あれ(下がりを叩きつける)はいけませんね(笑)。もし、弟子が同じようなことをしたら即刻注意しますね(苦笑)」と語っていた。
  • 1999年、破竹の勢いで上がってきた「20世紀最後の怪物」こと雅山との14歳差対決が話題になった。
  • 同じ昭和38年(1963年)生まれ(但し、学年は寺尾の方が1年上)の「花のサンパチ組」で良きライバルだった、元横綱北勝海・元大関小錦・元関脇琴ヶ梅引退相撲では、異例とも言える最後の取組相手として指名され、寺尾はそれぞれ3人の力士と土俵に上がり勝負していた。
  • 高所恐怖症で(兄の逆鉾も同様)、飛行機に乗るのも苦手だった。しかし部屋設立後は新弟子集めの移動のために飛行機嫌いを克服。今や航空会社のマイレージ集めが趣味となっているらしい[要出典]阪神タイガースファンとして知られ、野球中継のゲストを務めたこともある。プロレスラー高田延彦との親交が深い。
  • マスコミに対して好意的であり、普段は寡黙ながらユニークな人柄を買われ、現在でもテレビのバラエティ番組に度々出演している。
  • 現役最後の場所となった2002年9月場所の12日目、元関脇貴闘力と十両の地位で対戦したが、寺尾に敗れて負け越し幕下陥落が確定的となった貴闘力は、その日限りで現役引退を表明。その取り組み後には、寺尾が土俵上で貴闘力の肩をそっと叩き、互いの労をねぎらうというシーンが見られた。また同じ関脇同士ながら栃司には圧倒的に強く、幕内昇進前も含め13戦全勝と一方的に勝っている。
  • 現在、関取在位110場所(昭和59年7月〜平成14年9月)は魁皇安美錦の117場所、旭天鵬115場所に次ぐ史上4位。また幕内在位93場所も魁皇の107場所(平成5年5月、平成5年11月〜平成23年7月)、旭天鵬の99場所、高見山と安美錦の97場所に次ぐ史上5位(寺尾の引退直後は当時史上2位)の記録である。
  • ファミコンゲームソフトに『寺尾のどすこい大相撲』(ジャレコ、1989年)がある。
  • 新十両の時に1場所だけ名乗った「源氏山」の四股名であるが、日本相撲協会の番付表と星取表では「氏」の字の3画目の横線の右に(氏ヽ)の様に点が付けられていた。本来はその様な漢字は存在しないので極めて異例である。
  • 舞の海の解説に対しては大抵の親方がいなしたり流したりするが、寺尾は理論で攻めて張り合うためこのコンビはNHK大相撲中継の名物となっている[22]
  • 捌いて勝つ相撲には「後手に回るから」と批判的であり、立合いから能動的に攻め込む相撲が理想と主張している[23][24]
  • 2019年9月26日放送の「プレバト!!」(毎日放送)に出演。運動会の写真で一句というお題の『俳句の才能査定ランキング』で「ドローンからもみじと思えば運動会」という句を詠み、最下位となった。しかしながら、俳人の夏井いつきはドローンの視点を求めたのは決して悪くないとして『(上から見て)運動会の帽子がもみじのように色とりどり』という内容を書きたいという意図を汲んで添削を行った。
  • 「人様から預かった弟子を糖尿病にして帰す訳にはいかない」という考えから、部屋では菓子とジュースを禁止にしている。見つけたら即刻捨てる徹底ぶりで、ある時は冷蔵庫に10本程度あった炭酸飲料やジュースを流しに捨てては「ジュース弁償してやるから出て来い!」と弟子に名乗り出るように呼び掛けた[25]
  • 「横綱から序ノ口に至るまでの全力士に期待している」というのが本人の考えで、ある時外部の要人が「序ノ口なんて客もいないし拍手なんて起きないじゃないか」と口走った際に、当時審判部に入っていた錣山ははっきりと「そりゃあお客さんの数は少ないけれど、序ノ口でも一生懸命いい相撲を取ったらお客さんはすごい声援を送ってくれるんです」と言い返した[26]

主な成績

  • 通算成績:860勝938敗58休 勝率.478
    • 通算勝利860は歴代10位、通算敗北938は歴代2位
  • 幕内成績:626勝753敗16休 勝率.454
    • 幕内敗北753は歴代2位
  • 通算出場:1795回(歴代4位)
  • 通算連続出場:1359回(歴代6位)
  • 現役在位:140場所
  • 幕内在位:93場所(歴代5位)
  • 幕内出場:1378回(歴代5位)
  • 幕内連続出場:1063回(歴代4位)
  • 三役在位:13場所(関脇7場所、小結6場所)
  • 三賞:7回
    • 殊勲賞:3回(1989年1月場所、1994年5月場所、1995年3月場所)[1]
    • 敢闘賞:3回(1986年9月場所、1989年9月場所、1994年3月場所)[1]
    • 技能賞:1回(1989年7月場所)[1]
  • 金星:7個(千代の富士1個、北勝海1個、大乃国3個、貴乃花1個、武蔵丸1個)
  • 各段優勝
    • 十両優勝:2回(1985年1月場所、1985年5月場所)

場所別成績

寺尾常史
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1979年
(昭和54年)
x x x 番付外
2–1 
東序ノ口34枚目
6–1 
西序二段80枚目
6–1 
1980年
(昭和55年)
東序二段19枚目
2–5 
西序二段42枚目
6–1 
東三段目77枚目
2–5 
西序二段7枚目
3–4 
東序二段21枚目
5–2 
東三段目68枚目
3–4 
1981年
(昭和56年)
西三段目79枚目
4–3 
西三段目58枚目
3–4 
西三段目69枚目
6–1 
東三段目20枚目
4–3 
東三段目8枚目
4–3 
西幕下55枚目
2–5 
1982年
(昭和57年)
西三段目14枚目
6–1 
西幕下37枚目
5–2 
西幕下19枚目
4–3 
西幕下16枚目
4–3 
東幕下12枚目
3–4 
西幕下18枚目
4–3 
1983年
(昭和58年)
東幕下11枚目
3–4 
東幕下20枚目
3–4 
西幕下34枚目
4–3 
東幕下23枚目
3–4 
東幕下31枚目
4–3 
西幕下22枚目
5–2 
1984年
(昭和59年)
西幕下10枚目
5–2 
西幕下4枚目
5–2 
東幕下筆頭
5–2 
東十両10枚目
7–8 
西十両11枚目
8–7 
西十両8枚目
8–7 
1985年
(昭和60年)
西十両7枚目
優勝
12–3
西前頭14枚目
6–9 
東十両3枚目
優勝
12–3
西前頭12枚目
10–5 
西前頭2枚目
6–9 
西前頭5枚目
7–8 
1986年
(昭和61年)
東前頭7枚目
7–8 
西前頭9枚目
8–7 
西前頭4枚目
4–11 
東前頭12枚目
8–7 
東前頭8枚目
9–6
東前頭筆頭
6–9 
1987年
(昭和62年)
西前頭4枚目
6–9 
東前頭7枚目
8–7 
東前頭2枚目
5–10 
東前頭5枚目
7–8 
東前頭6枚目
6–9 
西前頭9枚目
8–7 
1988年
(昭和63年)
東前頭3枚目
7–8
西前頭3枚目
6–9 
西前頭6枚目
8–7 
西前頭筆頭
6–9 
西前頭4枚目
7–8 
東前頭6枚目
8–7 
1989年
(平成元年)
西前頭筆頭
8–7
西関脇
5–10 
東前頭3枚目
7–8 
西前頭3枚目
10–5
西関脇
8–7
西関脇
8–7 
1990年
(平成2年)
東張出関脇
7–8 
西小結
8–7 
東関脇
7–8 
西小結
8–7 
西関脇
9–6 
東関脇
5–10 
1991年
(平成3年)
東前頭2枚目
8–7
西小結
8–7 
東小結
5–10 
西前頭3枚目
6–9 
東前頭7枚目
8–7 
東前頭4枚目
6–9
1992年
(平成4年)
東前頭8枚目
8–7 
西前頭4枚目
8–7 
東前頭2枚目
2–13 
東前頭13枚目
9–6 
東前頭8枚目
9–6 
東前頭2枚目
7–8 
1993年
(平成5年)
東前頭5枚目
6–9 
西前頭9枚目
8–7 
東前頭5枚目
5–10 
東前頭11枚目
8–7 
西前頭4枚目
6–9 
西前頭6枚目
7–8 
1994年
(平成6年)
東前頭8枚目
8–7 
西前頭2枚目
9–6
西小結
8–7
西小結
4–11 
東前頭3枚目
4–11 
西前頭9枚目
9–6 
1995年
(平成7年)
西前頭2枚目
5–10 
東前頭6枚目
8–7
東前頭筆頭
5–10 
西前頭5枚目
5–10 
西前頭9枚目
8–7 
東前頭3枚目
5–10 
1996年
(平成8年)
東前頭7枚目
6–9 
東前頭11枚目
9–6 
東前頭3枚目
5–10 
西前頭6枚目
5–10 
西前頭10枚目
9–6 
東前頭3枚目
4–11 
1997年
(平成9年)
西前頭8枚目
8–7 
東前頭3枚目
2–12–1[注 4] 
東前頭13枚目
休場[注 5]
0–0–15
東前頭13枚目
9–6 
西前頭8枚目
7–8 
西前頭9枚目
6–9 
1998年
(平成10年)
西前頭13枚目
9–6 
東前頭8枚目
5–10 
西前頭12枚目
9–6 
東前頭9枚目
4–11 
東前頭16枚目
9–6 
西前頭11枚目
8–7 
1999年
(平成11年)
東前頭7枚目
8–7 
西前頭3枚目
5–10 
西前頭7枚目
6–9 
西前頭11枚目
8–7 
西前頭7枚目
8–7 
東前頭4枚目
5–10
2000年
(平成12年)
東前頭7枚目
5–10 
東前頭12枚目
7–8 
西前頭13枚目
5–10 
西十両3枚目
6–9 
東十両6枚目
8–7 
東十両5枚目
8–7 
2001年
(平成13年)
西十両2枚目
8–7 
西前頭12枚目
8–7 
東前頭9枚目
2–13 
西十両3枚目
9–6 
西十両筆頭
7–8 
西十両2枚目
休場[注 5]
0–0–15
2002年
(平成14年)
西十両2枚目
5–10 
西十両6枚目
8–7 
西十両2枚目
2–3–10 
東十両11枚目
休場[注 5]
0–0–15
東十両11枚目
引退
5–8–2
x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

改名歴

  • 寺尾 節男(てらお せつお)1979年7月場所 - 1984年5月場所
  • 源氏山 力三郎(げんじやま りきさぶろう)1984年7月場所
  • 寺尾 節男(てらお せつお)1984年9月場所 - 1987年9月場所
  • 寺尾 常史( - つねふみ)1987年11月場所 - 2002年9月場所

年寄変遷

  • 錣山 常史(しころやま つねふみ)2002年9月 - 2002年11月
  • 錣山 矩幸( - つねゆき)2002年11月 - 2021年4月
  • 錣山 瑛一( - えいいち)2021年4月 -

参考文献

  • 『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(著者:塩澤実信、発行元:北辰堂出版、2015年)p155-156
  • 石井代蔵著「相撲豪傑伝 第一巻」(ベースボール・マガジン社、1989年8月10日発行)
  • (佐藤祥子)『相撲部屋ちゃんこ百景 とっておきの話15』 河出文庫 2016年 (ISBN 978-4309414515)

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ この愛称は青葉城にも付けられていた。
  2. ^ 自身が生まれたばかりの頃、井筒部屋に外国人の見学者がやってきて"a baby"と言ったところ、兄達は「アビ」と聞き違え、そのまま角界での愛称として定着してしまった。この愛称は、愛弟子「阿炎」に四股名として名付けた。
  3. ^ 負け越したことからゲン直ししたともいわれる。また本人はかつて出演したテレビ番組『いつみても波瀾万丈』で、『源氏山』は横綱の名跡だから自分には重過ぎたとも語っていた。週刊女性2015年12月22日号の記事には「改名した途端に負け越し古くささも嫌で寺尾を四股名にした」とある。
  4. ^ 右足第1趾基節骨骨折により14日目から途中休場
  5. ^ a b c 公傷

出典

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  3. ^ ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p71
  4. ^ 佐藤祥子 45-46頁
  5. ^ 「相撲豪傑伝」p.256
  6. ^ a b c 「寺尾常史 闘志未だ健在なり。」『Sports Graphic Number』、1992年1月20日号、P.43
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  14. ^ 錣山親方、体調面考慮で審判部外れる SANSPO.COM 2017.7.7 18:13
  15. ^ 井筒親方と錣山親方…副理事候補選は異例の対決に 当選の兄「複雑」、落選の弟は晴れやか SANSPO.COM 2018.2.2 17:53(産経新聞社、2018年2月3日閲覧)
  16. ^ 貴乃花親方は落選=10人の理事候補決まる-相撲協会 JIJI.COM (時事通信社、2018年2月3日閲覧)
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  18. ^ 阿炎“キャバクラ引退届”の謎 錣山親方の暴走に協会も困惑(1/2ページ) 日刊ゲンダイ DIGITAL 2020/08/06 11:20 (2020年8月7日閲覧)
  19. ^ 阿炎“キャバクラ引退届”の謎 錣山親方の暴走に協会も困惑(2/2ページ) 日刊ゲンダイ DIGITAL 2020/08/06 11:20 (2020年8月7日閲覧)
  20. ^ 阿炎が初V!28年ぶり優勝決定ともえ戦制す 高安またも賜杯届かず/九州場所千秋楽写真特集 日刊スポーツ 2022年11月27日18時8分 (2022年11月27日閲覧)
  21. ^ 『大相撲ジャーナル』2018年3月号 p.60
  22. ^ 『相撲』2018年3月号 p.46-47
  23. ^ 『大相撲中継』2017年8月12日号 p16
  24. ^ 『大相撲ジャーナル』2017年5月号16ページ
  25. ^ 佐藤祥子 p.54
  26. ^ 「体の傷は治っても心の傷は治らない」「相撲は一人で取れない」錣山親方が語る指導論と注目力士 YAHOO!ニュース 2023年2/27(月) 7:00 (文・飯塚さき、2023年3月10日閲覧)

関連項目

外部リンク

  • 錣山親方(寺尾改メ)オフィシャルサイト
  • インタビューマガジン Anchor - 錣山親方インタビュー
  • 寺尾 常史 - 日本相撲協会
  • 相撲茶屋 寺尾 - 寺尾の兄が経営する相撲茶屋


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